小倉藩元家老と御用商人

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 若くして小倉藩の家老に就任し藩の枢機に立った島村志津摩(しづま)と行事飴屋との関係は、嘉永五年(一八五二)、八代玉江彦右衛門の時代から始まる。とりわけ、文久二年(一八六二)に九代彦右衛門(彦衛)が父の跡目を継いで、格式大庄屋から、翌年六郡大庄屋上席となるに及んで、その関係は一層深くなった。
 一八世紀後半、在郷商人飴屋は、京都郡行事村を拠点に広範な商活動を行い、六代宗慶、七代宗徹、八代宗寿と順調に家業を進展させていった。この間、藩権力と深く関わるようになり、御用商人として逼迫する藩の財政資金の調達などに携わった。
写真15 旧中津街道に沿った飴屋の土蔵(明治中期)
写真15 旧中津街道に沿った飴屋の土蔵(明治中期)

 特に九代彦右衛門の時代には、島村は家老を退いたとはいえ、藩重臣中の中でも小宮民部と並ぶ実力者としての地位を保っていただけに、彦右衛門も物心両面にわたって島村を後援している。二人の関係については、彦右衛門が日記風に書きとめた「日々必要記」四冊、文久元年(一八六一)~明治四年(一八七一)の記述から読みとれる。
 主要な部分を、紹介したい。
 文久元年酉(とり)年の最初の記事として、
 
三ノ丸様御恐悦、御祝儀献上物左之通り
一桐 丸火鉢壱ツ 椴(とど)箱入
 代盆 火箸添
一掛物 壱軸 桐箱人
一蝋燭 弐拾五斤 椴箱入
    数弐百挺
一玉印 壱挺 四斗入
一大鯛 弐枚
右三ノ丸様昨冬御家老之席ニ御成遊ばされ候ニ付、御恐悦御祝儀として差上申候
正月七日御屋敷へ差出し、其跡ニて拙(拙者)御年始へ罷出申候

 
と書かれている。ここで「三ノ丸様」とは島村のことであり、その屋敷が城内三ノ丸にあったので、畏敬の意味もこめて彦右衛門が使ったものと思われる。
 記事は島村が前年の冬、家老職に復職したのを知った彦右衛門が、祝儀として志津摩に献上した品の目録が記されている。椴松の木で作った箱入りの蝋燭、掛軸、桐の丸火鉢、玉印(酒の銘柄)の四斗樽、大鯛など豪商の贈物らしい豪華さである。
 目録は一月七日に島村の家に差し出され、その後当主彦右衛門が年始に行っている。
 彦右衛門はその後も、四季折々に酒、肴、引飴などの食料品をはじめ、女帯、扇子、夏手拭、羽二重、紫綸子(りんず)の下着などを島村家に贈っている。
 中でも目を引くのは、文久三年正月九日と三月二三日の、島村の子息誕生にあたっての記事である。
 
正月九日使健(健次)遣し申候
一破魔弓 壱組 三ノ丸様へ
     台付
  但、半弓仕立也、代金三両也
 本勒(ろく)付
 本金御紋付 下り藤
 桑矢屏風台
大坂御堂筋本町南八幡屋吉兵衛出、昨戌(いぬ)十月十三日若様御誕生ニ付、早速繁蔵へ注文致し置候

亥(い)三月廿三日ニ忰持参致し候
一羽二重 すかしめ  三ノ丸様へ
   松竹梅も字付
   友染うら白茶ひし
紫綸子(りんず)引替え下着
 奥うら羽二重本絹
右壱重、三ノ丸嶋村若様初着(うぶぎ)ニ差上申候

 
 いずれも島村家の子息誕生に当たっての祝いの品が列記されている。彦右衛門の島村に対する気遣いがうかがえる。
 この数日後、今度は島村から彦右衛門に、当時としては容易に入手し難い短筒一挺が贈られている。
 
鉄砲一匁五分筒(短筒) 壱挺
 形付(かたつき)半天 壱反
右亥三月廿七日夜、三ノ丸嶋村太夫様より直々拝領致し候

 
写真16 9代玉江彦右衛門が島村から拝領した短筒と火薬入れ
写真16 9代玉江彦右衛門が島村から拝領した短筒と火薬入れ(玉江彦太郎氏所蔵)

 おそらく、これまでの島村家に対する数々の献上物に対する返礼であろう。
 一方世情は、第一次征長令に次ぐ第二次征長令で騒然たる状況となり、西日本諸藩は緊張した。特に小倉藩においては、徳川譜代藩としての立場と隣境長州藩とのこれまでの確執もあるだけに、この重大時局に直面して一層緊迫の度を増した。
 元家老島村は乞われて、新たに陣立てされた小倉藩軍一番備(そなえ)の士(さむらい)大将として、藩軍の最高責任者となって出陣した。
 元治元年(一八六四)九月三日の記事には、先陣を承った島村に、彦右衛門がゲベール銃五挺、腰に下げる革袋(胴乱)、弾など銃一式の品々を献上したことが記されている。
 
      覚
子(ね)九月三日
一、ケヘル         五挺
   但、釼(けん)付鉄砲也
一、鋳型(いがた)      五丁
一、胴乱(どうらん)     三ツ
一、道具          五ツ
一、弾           弐百
右之品々三ノ丸嶋村様へ献上致し候、尤此度長州ノ先陣遊ばされ候ニ付差出申候
  元治元年子九月三日   店順平遣し

 
 戦時体制に入った慶応元年(一八六五)、さすがに彦右衛門と島村との交誼の記録は少なくなったが、それでも正月の賀包及び進物は欠かさず行われていたようである。
 
    別年賀包心覚
  丑(うし)正月十四日
   一、金弐両也  三ノ丸様御内衆中へ
   内 金弐朱親方内 弐朱蓑田泰蔵
   又 同弐朱御連様又 弐朱酒井兵作
   又 同弐朱御袋様又 弐朱松本才兵衛
   又 同壱朱長太郎又 弐朱河野忠□
   又 同壱朱甚太郎又 弐朱□左衛門
   又 同壱朱下 女郎  □□栄左衛門
   又 弐朱おます様内 壱朱文助
   又 弐朱おやす又 壱朱角蔵
   又 弐朱およね又 壱朱初吉
   又 弐朱おきく

 
 これを見る限り、新年の祝い金は島村家の家中一統、奉公人に至るまで贈られていることが分かる。
 島村と飴屋との結びつきは、長州藩との和議が成立し、藩庁が香春に移転した以後も続いた。
 特に注目すべきことは、明治二年(一八六九)四月、先に懇請されて再度家老職に就任した島村が、体調をこわして職の辞退を申し出たところ、藩庁から出された沙汰書が、島村の用人簑田泰蔵を通して、そのまま彦右衛門のもとに知らされていることである。
 沙汰書の内容は次の通りである。
 
  嶋村様御用御しらせ左之通り
一昨日御用召御沙汰書付
去ル十七日不快ニ召させられニ付、名代として小笠原甲斐罷出候ところ、此度思召を以て執政上席仰付られ、御政務筋は是迄之通り相勤候様、尢(もっとも)近来病性(症)有り候趣御承知遊ばされ難渋有るべき候得ども、御多端之折柄ニ付、病中ハ日勤、御用捨なされ候間、折々出勤致し候様仰出られ候ニ付、内歎申上候ところ、なおまた今日右同断させられニ付、甲斐罷出候ところ、内歎之趣御聴ニ達し余義なき次第と思召、よって不快中休職之心得ヲ以保養仰付られ候、尤御多端之折柄ニ付、御政務筋是迄之通り相心得候様、更ニ仰出られ、有りがたき次第存じ奉り候、右御知として使を以て申入候、以上 
 
巳(み)四月廿五日、箕田氏よりしらせ参り候

 
 さらに、明治二年一二月の記述には
 
 巳十二月廿五日嶋村様御用、箕田氏よりしらせ左之通り

丙寅之軍賞(ヘイインノクンショウ)其砌固辞(ミキリコシ)ニ及び候ところ、猶功労ヲ感懐(カンカイ)シ、累代家格・家門次席申付候事
  巳十二月廿五日           政事堂

 
 こうした藩庁からの島村への御用向の知らせは、その都度彦右衛門に通じるほど、二人は親密な関係にあった。
 明治二年一〇月一日、島村は病気を理由に香春藩執政を辞した。藩主忠忱は、島村の辞意を聞き、休養を勧めると共に、一藩の大事には特に関わってくれるよう命じて、辞職を認めたという。
 この後、島村は京都郡新津村二崎(ふたざき)に隠棲するのだが、次の二カ所の記述から見て、彦右衛門が島村のために、その家屋敷を用立て、引越しには祝儀として酒、魚を贈っていることが分かる。
 
此度御家中土着致し候様相なり候ニ付、嶋村様も二崎、家ト屋敷御買求メ之躰ニ致し呉候よふ御内談候ニ付、代料は頂戴仕らず、売渡し之躰ニて家屋敷は御用立置申候、尢当年より年貢丈は御同家より御上納ニ相なり申すべき約定也、外ニ御屋敷取建ニ相なり候うへハ御返済下さるべき筈也、先ツ夫(それ)迄ハ御用立申すべき事、此義は鶴村氏・箕田氏委細承知致し居申候
 明治四未八月廿四日       須山□□(判読不能)
委細は店御用帳ニ記置中候

 
午(うま)閏十月二日
一、大鯖(さば)  壱はい  嶋村様へ
 久方振罷出候義、明日二崎ニ御引移り御祝儀共

 
閏十月五日
一、大鯛 壱枚   御同人
一、玉椿 三升
御家移り御祝儀御願事義ニさし出し申候

 
 明治三年一〇月二五日、やはり返礼の気持ちからか、島村は彦右衛門に島村家の家紋付の鉄砲一丁を贈っている。
 
午十月廿五日入来之節
一、鉄砲壱丁
  但、玉目壱匁
 嶋村様より拝領筒也
 御紋付

 
 その後も彦右衛門は、様々な品物を二崎の新居に届けている。
 
  嶋村様行
正月十五日
一、置炬燵  壱
    火入共

一、古手たんす  壱本  御奥様御用

一、桐角火鉢       珠光院様へ
   ヒラキ茶道具入付さし上申

一、ス焼撫(な)て火鉢     御奥様へ

 
 いかに島村が飴屋と昵懇にしていたかが分かる記事である。
 島村の家族に対する彦右衛門の心遣いは、特に島村の母珠光院についても厚い。次の記事は興味深い。
 
   覚
一、国(くに)札四貫目
   此(この)り(利)弐歩ノ定
右は慥(たしか)ニ御預り申上置候、然ル上ハ御入用之節御沙汰次第何時ニても御返納仕るべく候、そのため手形かくのごとく御座候、以上
  未(ひつじ)十一月廿七日   彦衛
  珠光院様
右之札嶋村氏御覧ニて御願之上御預り申上置候、□□ニ入置申候
御容赦御願申上候段付(つけ)紙致置候、尤嶋村氏御承知申候

 
 この覚は、藩札四貫目を彦右衛門が珠光院から預かり、毎月二歩の利子を支払うというもので、御入用であればいつでもお返し致します、なおこの覚書は島村様も十分承知された上でのものです、という内容である。
 未年、すなわち明治四年一一月といえば、旧豊津藩士へ知行渡しが行われた月であり、おそらく彦右衛門が気を回して、多少でも利殖で珠光院にゆとりができるよう取り計らったものであろう。
 これより先、明治二年一二月、彦右衛門は藩校育徳館の建築費として、七〇〇〇両を藩に献納している。そして、その功により翌三年四月五日付で「準中士下等列、切米拾五石三人扶持」新規召抱として士席に入れられた。
 これを機会に同年八月、彦衛と改名した九代当主は、長峡川筋の綿実蔵(わたざねぐら)を住宅に改造し別荘として移住、万年青(おもと)や風蘭などを観賞して楽しみ、飴屋の実権を長男の紋二郎に譲った。
 こうしたお家事情もあって、以後、「日々必要記」の島村関連の記事は疎(まば)らになる。
 
  明治五年申(さる)年
正月五日
一、日田半切 百枚 嶋村様
 外ニ生鰤(ぶり)弐斤、とうふ五丁
一、凧(たこ)の糸 壱把 同若様
   代札弐拾四匁
一、鹿子半弐尺  同女郎様
   代札三拾八匁
右は彦衛御年始ニ罷出候節さし出申候
七月十四日
一、植木鉢  中  壱ツ 嶋村様

 
 以上は明治五年の記事だが、年始の訪問及び賀包は、相変わらず続いている。なお、七月一四日に植木鉢を島村に贈ったことは、当時の彦衛の暮らしぶりからみてうなずけるものがある。
 この後、明治七年九月の一件をもって記事はすべて終わっている。
 
戌九月廿三日
一、角手柳こり  壱ツ  嶋村様貸
   但、肥後御出津之節□□□御用立申候
      受取

写真17 長峡川に沿った飴屋の浜倉(大正末期)
写真17 長峡川に沿った飴屋の浜倉(大正末期)