島村、二崎に隠棲

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 第二次征長戦で長州侵攻軍と死闘を演じ、山県有朋をして「小倉藩に島村あり」と言わしめた小倉藩の名将島村志津摩が、藩の要職のすべてを返上して二崎(現苅田町)の山麓に隠棲したのは、明治二年一二月末と思われる。
 すでにこの年一〇月には、錦原(にしきばる)(豊津)に新藩庁舎が落成し、一一月には藩主忠忱(ただのぶ)も、滞在中の上赤村正福寺より新装成った錦原御殿に移っていた。
 隠棲の理由は、先に明治二年の沙汰書で見られたように健康上の問題が第一に挙げられるが、ほかに企救郡の返還や征長戦の責任問題などもあったと考えられる。ともあれ、地元古老の伝え話しによれば、海辺に近い二崎の地にて、悠々自適の生活を送っていたという。
 
図2 島村屋敷跡位置図
図2 島村屋敷跡位置図(天神池そばの●印。現苅田町二崎)