島村の炭坑経営

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 隠棲していた島村が炭坑経営に乗り出した時期は、おそらく廃藩置県が断行された明治四年の末か、明治五年の初頭にかけてであろう。藩体制の終焉で、禄を失った士族の窮状を憂慮した島村が、その救済事業の一環として踏み切ったものと考えられる。
 『小倉市誌』下巻には、島村が家老在任中から、藩の産業振興策として田川郡の石炭採掘を盛んにし、川原弓削田(ゆげた)、その他の地方に坑を開かせていることが記されている。
 また、『金田町誌』には、「安政六年(一八五九)、小倉藩家老島村志津摩が郡代外四〇名を伴って田川郡金田村の石炭山を視察す」と記述されており、島村が早くから石炭産業に意欲を持っていたことがうかがえる。
 後年、貝島財閥を築きあげた貝島太助は、明治五年一〇月、二八歳で田川郡弓削田村の西弓削田炭坑に入坑しているが、彼の伝記の中に、「そもそも西弓削田炭坑は、今の峯地炭坑にして、筑豊五郡中、有数の大炭坑なりき。旧小倉藩家老島村志津馬(摩)の所有なりしが、彼の到りし時は創業、日未だ浅くして、諸般の設備整頓せず」(「貝島太助伝」九州大学石炭研究資料センター蔵)とある。
 さらに同書には、当時の鉱業が甚だ幼稚にして、自然の障害が頻発、特に坑底の漏水処理で、採炭夫と揚水夫の待遇をめぐっての衝突も多く、坑主島村も賃金の窮乏を告げ、しばしば採炭賃金の支払いに支障をきたすなど、その経営が容易でなかったことが記されている。
 このことから、明治五年前後、隠棲した島村志津摩が西弓削田炭坑の坑主として、その経営に当たっていたことは間違いない。
 明治六年、小倉の豪商中原嘉左右(かぞう)の日記(以下『中原日記』とする)に、島村と石炭に関わる記事がある。
 
明治六年一月五日
一、柏木黙二へ出状之事
但、二タ崎蒸気之一条申しきたり候段之返書遣し候事
明治六年一月十九日
一、二タ崎島村氏行、赤田出状柏木へ相渡候事

 
 前段は、中原嘉左右が、島村からの蒸気の件についての返事を、大橋の柏屋の当主である柏木黙二に手紙にした記事である。この中にある「蒸気之一条」とは何を指しているのか、いまひとつはっきりしない。
 後段に記されている「赤田」とは、おそらく赤池石炭役所に勤務している赤田寿一郎のことであろう。これからすると、柏木に託した島村宛の赤田出状は、石炭に関わる書状であったに相違ない。
 話は戻るが、明治三年三月二一日の『中原日記』にも、
 
堤半蔵・柏木黙助同道、島村大夫へ罷出、蒸気船之御咄(はなし)有り候事

 
という記述がなされている。当時、行事の堤平兵衛宅を借り受けていた中原嘉左右が、平兵衛の子半蔵と大橋の柏木黙二と共に二崎を訪ねた折、島村から蒸気船の話があったという内容である。
 堤と柏木は、共に行事、大橋の大商人であり、中原嘉左右も当時、筑豊石炭の販売権を握り、早くから海上運輸の重要性を察知していただけに、蒸気船の件に絡んで、石炭採掘・販売などについての話が以前から出ていたと推察される。
 いずれにせよ、これらの資料から察するに、明治四年七月の廃藩置県によって、藩が解体され、藩直営の炭坑が一般業者の手に移るに至って、旧藩家老の島村は私財を投じて買い取り、自ら坑主となって士族の授産事業に踏み込んだが、資金面で行きづまり、事業半ばにして退いたのではないかと思われる。
 明治六年の「田川郡坑業人」一覧(『田川市史中巻』)には、すでに島村の名前は見当たらない。このことから、島村の炭坑経営は、おそらく明治六年の早い時期に挫折したと考えられる。
 明治六年二月以降、島村の石炭関係に関する『中原日記』の記述は途絶え、柏木、堤ら在郷商人との関係記事もすっかり姿を消した。
 このころ島村は、所有の炭坑経営に挫折し、孤独を嘆じながら余生を送っていたことだろう。生活が窮乏し、島村家伝来の刀剣や宝物が散逸したのもこの時期であろう。