旧仲津郡崎野村(現行橋市泉中央一丁目)にある龍泉寺の東隣りに、樹木に囲まれた広大な屋敷があった。近年、宅地開発事業で取り壊されて、この界隈はすっかり昔の面影はなくなったが、かつては一五〇〇坪の上村源三の屋敷であった。
源三は元小笠原藩士で、改名後上村甚三郎といい、維新後、藩から金を借りて、娘の嫁ぎ先(田川郡赤池の赤田寿三郎)との関係もあって赤池の炭坑で儲け、さらに大阪に出て米相場で、莫大な利益を得た。上村はその大金で、周辺の水田などを買い占め、財をなした。
島村が住んだ二崎からこの上村屋敷まで、距離にして一里余、途中に行事飴屋などもあることから、島村は再三この屋敷を訪れている。
上村家の親族の話によれば、源三屋敷は、玄関の式台を上がって、すぐが八畳の間、奥の一二畳の座敷には床の間が二つあり、正面には能舞台も設けられていた。庭にはザボンや山椒、椿の木など四季折々の樹木が植えられ、のちに英国式のテニスコートも造られたという。
島村との関係については、上村家の子孫の方が古くから家に伝わる話として次のように語っていた。
島村様は前家老としての格式を保ち、家に入ると黙って自ら座敷に上がり、床柱を背にして坐った。上村家では丁重にもてなし、帰りには幾許(いくばく)かの金子(きんす)を包んで差し上げた。御家老は「有難う」と言って受け取り、代わりに必ず持参の品を置いていった。「金子を貸せ」とか「金子を用立てよ」などという言葉は決して口にしなかった。こちらから「いかほどご入用ですか」と尋ねても、何も言われなかったので随分気を遣った、という。
おそらく島村のこれまでの経歴と誇りが、そうした言葉を出すことを許さなかったのであろう。
上村家には島村の持参した逸品がかなりあった。島村使用の払子(ほっす)や采配、軍扇、家紋(下り藤)入りの太刀、火縄銃、陣羽織、軸物、茶壺(表が銀、中が金)、それに慶応三年三月、一〇代忠忱公から拝領の佩刀まであったという。
これらはすべて島村家が持ち込んだもので、よほど暮らし向きが思わしくなかったものと考えられる。
ただこれについては、上村家の人は、島村の死後、夫人が人力車でよく二崎から来て、「志津摩の遺品を上村で保管して欲しい」という話があったと聞いているので、この時にもいくらか持ち込まれたのではないか、とも言われていた。
いずれにしても、隠棲後の島村と上村は、生活面で深いつながりがあったことは確かである。