小沢と生駒は共に、かつて島村との信頼関係が深かっただけに、この時、軍の要請で編成された士族貫属隊は、陰で島村が中心になって作らせたといわれている。
『明治維新人名辞典』の「島村貫倫(つらとも)」の項に、「佐賀の乱には、旧藩士を鼓舞して政府軍に救援尽力した」とあるのは、この貫属隊編成のことを指していると推察される。
その後の、島村に関する消息は掴(つか)めなかったが、近年、前豊津藩少参事で、当時陸軍省の第五局第五課長をしていた松本正足(まさたり)の日記が国立国会図書館に保管されており、その内の明治九年の記載に、島村について次のように書かれていることが分かった。
明治九年六月二十七日 晴
少々不快ニ付、午前ニ退出ス、小笠原長祚(ながよし)子、島村志津摩篤疾ニ付、看訪ノため帰県、明廿八日発帆之由付、金弐拾円書状ニ入組送方、長祚子ニ託ス承諾之旨返書来ル
少々不快ニ付、午前ニ退出ス、小笠原長祚(ながよし)子、島村志津摩篤疾ニ付、看訪ノため帰県、明廿八日発帆之由付、金弐拾円書状ニ入組送方、長祚子ニ託ス承諾之旨返書来ル
この日記から、すでにこの時期、島村は病の床に臥し、しかも病状はかなり重かったことがうかがえる。
ところで、この日から五日後の、明治九年七月二日の『中原日記』には、島村の後室小笠原津知(つち)の兄で東京在住の義兄長祚宛に、「病気は全快したので来ないでよい」という電報を、「中原屋」を通して発信したという記事が出ている。
明治九年七月二日 雨
一、東京牛込若松丁七十八番地 小笠原長祚へ島村志津摩より電報取次、仕出し候事
賃三十九銭五厘
フタサ(ザ)キ ヒ(ビ)ョウニン セ(ゼ)ンカイ クタ(ダ)ル ヘ(ベ)カラス(ズ)
右之通、今朝第二号仕出之事蓑田泰蔵より頼来ル
此料金三拾九銭五厘島村へ かし
一、東京牛込若松丁七十八番地 小笠原長祚へ島村志津摩より電報取次、仕出し候事
賃三十九銭五厘
フタサ(ザ)キ ヒ(ビ)ョウニン セ(ゼ)ンカイ クタ(ダ)ル ヘ(ベ)カラス(ズ)
右之通、今朝第二号仕出之事蓑田泰蔵より頼来ル
此料金三拾九銭五厘島村へ かし
本当に電文どおり全快したのであろうか。おそらく島村は、病状は決してはかばかしくなかったが、長祚が遠路東京から下って来ることに気を遣ったものと考えられる。
「松本正足日記」には、小笠原長祚は六月二八日に東京を出発する、と書かれているので、電報発信の日付からみて、長祚はすでに出発した後で間に合わなかっただろう。
長祚が二崎の島村の所に来たか否かの記録はない。
ちなみに小笠原長祚は、別名甲斐といい、香春藩の執政を務め、藩士の信頼も厚く、島村と共に藩政末期の厳しい状況を乗り切った人物である。
小笠原長祚が危惧したとおり、島村の病状は重かった。
八月に入って、秋月の不平士族の旗上げに理解を示していた、豊津士族の急進派の頭目であった杉生十郎は、二崎の島村のもとに使者を遣わし、秋月党が挙兵した場合に、豊津士族としてどう対応すべきかの伺いを立てた。島村は病床の身でありながら、佐賀の乱を引き合いに出して挙兵に反対し、軽挙を慎むよう杉生に伝えたという(上村源三の孫武夫氏の談)。それは旧藩士の動きを案じる島村の最後の忠告でもあった。
明治九年八月一八日、島村志津摩は京都郡二崎の邸にて病没した。享年四四歳。
島村と交誼のあった行事・大橋の在郷商人たちが、島村の死に当たってどんな関わりをしたか、地元の文献には全く記されてない。
墓は邸背後の山腹に建立されたが、明治二八年(一八九五)、広寿山福寿寺内(北九州市小倉北区)に改葬された。