第二次征長戦に敗れたあとの小倉藩の現状は、まことに悲惨だった。国土は荒れ、戦費と、香春・熊本への移住に莫大な費用がかかった上に、新たに新政府より要請の出た東北出兵などにより、ついに藩財政は破綻し、危機的状況下にあった。
ここに至って、慶応三年三月、藩は家臣の禄高の高下(こうげ)に関係なく、一人一日五合宛(あて)給与するという面扶持(めんぶち)の非常措置をとった。この対応は同年九月まで続き、その後一年間は、知行扶持米を半高給与にして、この危機を乗り切った。この間、幕府にも再三にわたって救援米の下付を要請した。さらに藩所有の蒸気軍艦「飛龍丸」や、藩の大坂屋敷を手離すなど、諸藩の中でも最も厳しい財政状況の中で維新期を迎えた。
明治元年一〇月二八日、新政府は「藩治職制」を制定し各藩に下した。これは、藩統治機構の画一化を通して、諸藩を政府の地方機関として組織しようと意図したものであった。
これにより門閥世襲の家老制度を外し、新たに執政、参政、公議人を置いた。執政は新政府のもとで藩主を補佐して一藩を総(す)べ、参政は藩の庶務をあずかり、公議人は執政、参政の中から選ばれて、国論を代表し、政府の議員になるものとした。これら幹部の人事や職制の任命権は藩主に属し、太政官には事後に報告するだけでよかった。ただし人事に際しては、門閥にかかわらず、つとめて公の選挙により人材を登用することと指示した。
この公布は、単に人材の登用としてのみではなく、いかにして新政府が彼らを通して藩の動きを掌握・規制し、指導権を握り得るかをねらったものであった。
明治元年一二月一五日、香春藩は、新政府の出した基準・規制に則り、これまでの幕藩体制下の繁雑な機構を整理すべく、家老職を廃止して執政職制に切り替え、「気分一新」して藩の再建に取り組んだ。