版籍奉還と藩制の布達

717 ~ 718 / 898ページ
 明治二年六月一七日、全国の各藩主がこれまで所有していた土地と人民とを朝廷に返還するという「版籍奉還」が実施された。その数は総計二七四人に及び、総計草高(玄米)は一九〇四万六〇三二石余に上った。
 これにより、第一〇代小倉藩主小笠原忠忱は、新たに香春藩の知藩事となった。
 六月二五日には、知藩事に「諸務変革数項」が通達された。これは各知藩事の家禄を封地実収の一〇分の一と定め、家臣を士族の称で呼び、支配の現米総高をはじめ、諸物産、諸税数、藩庁一カ年の費用、職制、職員、士兵、卒の員数、寺社領などについて各藩の実態を新政府に上申せよ、というものであった。
 この通達には、版籍奉還で旧藩主が知藩事になっても、新政府の規制下に置き、その実状を把握して、政府の支配力を藩内部に滲透させる企図があったと思われる。
 その年七月八日、政府は古代の律令に準じた新しい「職員令」を制定して、表5のような官制を改正した。
 
表5 明治2年の「職員令」で制定された官制
(明治2年7月~4年6月までの任官者)
官職姓名(出身)
 右大臣三条実美(公)
太政官大納言岩倉具視(公)
徳大寺実則(公)
鍋島直正(肥)
中御門経之(公)
嵯峨実愛(公)
参議副島種臣(肥)
前原一誠(長)
大久保利通(薩)
広沢真臣(長)
佐々木高行(土)
斎藤利行(土)
木戸孝允(長)
大隈重信(肥)
民部省松平慶永(越)
伊達宗城(宇)
大輔広沢真臣(長)
大隈重信(肥)
大木喬任(肥)
大蔵省松平慶永(越)
伊達宗城(宇)
大輔大隈重信(肥)
兵部省小松宮嘉彰(親)
有栖川宮熾仁(親)
大輔大村益次郎(長)
前原一誠(長)
刑部省嵯峨実愛(公)
大輔佐々木高行(土)
松本暢(宇)
斎藤利行(土)
宮内省万里小路博房(公)
大輔烏丸光徳(公)
外務省沢宣嘉(公)
大輔寺島宗則(薩)
工部省欠員
大輔欠員
神祇官中山忠能(公)
大副白川資訓(公)
近衛忠房(公)
出典:『廃藩置県』(松尾正人著)

 この太政官制の成立は、まさに藩を中央集権体制内に組み入れた機構であった。知藩事の職務は一層明確化され、執政・参政に代わって、新たに正(しょう)・権(ごん)の大参事、少参事が置かれた。これにより知藩事の権限は縮小され、すべて政府に届出・承認の手続が求められた。
 こうした政府の改革を受けて、香春藩でも明治二年の秋からは、機構改革に伴う藩士の身分や職制の改廃などで慌しい日々を送った。その上、新しい藩庁移転の大事業などがあって、藩当局の苦脳は想像を絶するものがあった。
 明治二年一二月、香春藩は豊津の地に移転し、豊津藩と改められた。
 明治三年九月一〇日、新政府は藩改革の総仕上げとして、「藩制」を布達した。これは、藩体制の基幹部分に重大な改変を加えたもので、藩の独自性・自主性に大幅な規制を加え、新政権の支配力をさらに強化しようとするねらいがあった。特に藩体制解体にとって重要なのは次の三点である。
 
①藩石高の、一〇%を知藩事家禄とし、九%を海陸軍費に充てる(但し半額に当たる四・五%は海軍費として政府に上納)。残る八一%を藩庁の経費や士族卒の家禄とする。
②藩債(藩が抱えた負債)は、知藩事・士卒家禄と藩庁経費を削減して償却する。
③藩札は引替完了の目途を定め、一カ年毎に引替高明細書を提出する。

 
 この中央政府の指令・規制に従って、各藩は藩庁経費の節減にかかり、旧藩士の家禄は大幅に削減された。
 こうした各藩の禄制改革は、各藩状によって差異はあるが、総体的には禄高が高くなるほど削減率を大きくする上損下益となっていた。具体的には、元家老や重臣などの上士の家禄を旧禄の一割前後にまで削減する一方、末端である一〇石以下クラスの家禄は、旧来の受取高が維持された場合が多かった。