明治二年の「長井手永(てなが)大庄屋日記」には、具体的な統制の記録が幾つか挙げられている。
次の①~④の記述は、当時の藩の郡政局の責任者(旧郡代)志津野儀右衛門から、部下の郡宰役(さいやく)(旧筋奉行)和田卓蔵宛の書面と、それを受けての和田卓蔵が管轄下の里長(さとおさ)に出した触(ふれ)、ならびに郡政局からの通達記事である。
①明治二年二月一二日の条 | ||
別紙条目壱通入組差遣し候、前々之趣を以宜御取計且人別読聞せ之上は、役所へ差返さるべく候、以上 | ||
二月十一日 | 志津野儀右衛門 | |
和田卓蔵殿 | ||
一 | 強訴、徒党、逃散、越訴は兼々御制禁之義ニ付、かたく相慎申すべし、尤非分之願事等致すまじく、若者どもニ至まで心得違之義無き様致すべき事 | |
一 | 当時格別之御時節柄深く相わきまえ、質素倹約相立申すべし、尤諸出来等少も取締らず之義無き様、吟味とげ申すべき事 |
②明治二年六月二一日の条 | |
御郡中之ものども近年御領内出奔致し、他国へ罷越居候者名前、急速取調子(しらべ)書出し候様宜取計われ候、尤出奔之者□其時々村方帳外致(はずし)居申すべし、右帳外之者書出し致さるべく候、以上 | |
六月十六日 | 和田卓蔵 |
里正(りせい)(村長)中(御中) |
③明治二年七月五日の条 | ||
御郡中村々へ諭文(さとしぶみ)之制札掛方候様、御達これ有り候ニ付、別紙雛形之通村々ニて相したため、高札場へ来ル十三日迄間違なく掛方いたし候様、御取計成され度候旨、知事申されかくの如御座候 以上 | ||
七月四日 | 郡政局 | |
和田卓蔵様 | ||
なお以て本文制札は極(ごく)御さし急キニ付、相成るべくだけ一日も早く掛方いたし候様、勿論掛方相済候ハ、其段届出候様、御取計成されたくとの義ニ御座候、已(い)上 | ||
諭文 | ||
一 | 天道をおそれ神佛を信心せよ | |
一 | 天朝の御法度をかたく守れ | |
一 | 御国の掟条目をそむくましきそ | |
一 | 親は又なき物なれハ孝行をつくせ | |
一 | 主を大切にしほうはい(胞輩)の中能(仲よく)せよ | |
一 | 夫婦兄弟むつましく一家親類したしくせよ | |
一 | 年寄をうやまひ子供をあなとるな | |
一 | 朝寝せす夜なへ(べ)すへし | |
一 | 何事も短気にせす堪忍せよ 堪忍は福の本、短気は禍の根と知るへし | |
一 | 大酒のますうそいふな | |
一 | 工(公)事たくむな | |
右の条々を平生よく々々慎み一和したらハ、時々ハ楽むへし、人たのしまされはやまひを生す。病生してハ働の障となり、たのしみ過れハ放蕩の基となる、能々心を用ゆへし | ||
明治二年己巳七月 | 民政局 |
④明治二年九月七日の条 | |
御郡中之ものども、小売米等差支、人別難渋致し候ところ、当節早稲(わせ)之分は溝苅等致候もの少なからず趣、然(しかる)ニ新穀ニ続かれ候迚大(とておおい)ニ安心之躰ニて、右様苅取喰込候ては、明春又々大ニ差支ハ眼前之義ニ付、矢張当夏以来之有様忘却致さず日々喰物其外とも、質素倹約相守候様、御手抜なく御説諭下々へ貫徹候様、御尽力なされ候様申来候、両条宜取計候 | |
九月四日 | 和田卓蔵 |
里正中 |
これら一連の通達内容は、細川、小笠原による豊前領統治時代から農村政策として取られていた措置で、特段目新しいものではない。ただ、農民としては、二世紀半も続いた徳川の天下が眼前で崩れゆくのを見て、「御一新」の世に農村解放への願望を期待していたに違いない。現実に近隣藩領では、維新変革を契機に土地が平均に割り渡されるという、いわゆる土地平均風聞がかなり広く流布されていたし、藩によっては一時期、年貢米の大幅な減税策を取ったところもあった。
しかし、豊前地域では、こうした農民の願いはすべて空しいものとなった。強訴、徒党、逃散、越訴の禁止をはじめとして、年貢、諸夫役の確保維持のため、特に領内からの出奔者については、厳しく取り調べて名前を報告するように求めた。さらに、諭文を高札場に掲げて、日常生活全般についての規制と心得を示すなど、厳しい藩の実情を反映して様々な形で村方への統制が強められた。
こうした郡政局からの相次ぐ布達は、長井手永大庄屋の管轄内のみでなく、現行橋市域にあたる京都・仲津両郡内の各手永大庄屋を通じて、末端の村方に通達されたことは間違いない。