在郷商人と献金の格付け

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 明治二年から三年にかけて、藩は藩庁建設に当たっての財政獲得のため、在郷商人をはじめ、広く領内篤志家の献金を求めた。明治二年一一月一九日の「長井手永大庄屋日記」には、「献金御趣意被下」という見出しで、次のような記録が残されている。
 
巳十一月十九日
明治二年十二月朔日(ついたち)
 献金御趣意下さる
百五拾両以上格式大庄屋
八拾両以上大庄屋格
五拾両以上格式吟味役
三拾五両以上苗字帯刀
弐拾両以上苗字脇差、門松御免
拾両以上苗字脇差御免
七両以上脇差御免
五両以下御酒肴下さる
 地盤格合有る者、三ケ弐出金仕候はば一格上り候之事

 
 この記事は、献金額によってどれくらいの格式が得られるかという基準を表したもので、末尾には、これまで一定の格式をもっていた者には、その金額の三分の二を出せばさらに一格上位の格付けになる、という趣旨の文言が付け加えられている。
 こうした藩への献金は、藩財政の窮乏が著しくなった天明・天保以降の幕末期にかけて目立つようになるが、維新政権下においても領内における献金格付けの慣行がなお続いていたことが分かる。
 特に、藩の銀主でもあった大阪の両替商平野屋が、明治三年維新の荒波を受けて、破産し不融通になったため、藩当局としては益々国元銀主に依存しなければならなくなった。
 ここに在郷商人は、藩の主要な銀主としての役割を担う一方、それに対する見返りとしての高い格付けも与えられた。
 郷土の在郷商人でもある飴屋の玉江彦右衛門、新屋の堤兵蔵、柏屋の柏木勘八郎などは、早くから動乱期の藩財政に寄与していたが、かねて育徳館建設・藩庁造営に多額の献金をしたことにより、左記のような格付けを申し渡されている。
 
 明治三年四月五日
玉江彦右衛門
累年御勝手向御用わきまえ、なおまた、育徳館造営申出、日ならず落成ニ及、よって、新規召抱られ、准中士下等ニ列、切米拾石三人扶持、民政局主事支配、勧農御用掛(かかり)仰付られ候
(『中原嘉左右日記』第二巻)

 明治三年四月十日
京都郡行事村格式大庄屋堤兵蔵義、庁御造営ニ付、民政局取建差出候、□承り届候、よって永代、居屋敷地年貢納米用捨(ようしゃ)申付、なおまた育徳館ニ書物数冊相納殊勝之事ニ付吹聴致し候旨申渡させ候
「藩庁御造営別記」小笠原文庫所蔵)

柏木黙二 
同 勘八郎
累年勝手向用わきまえ相成、なおまた庁造営ニ付ては一万金献納用度ニ差加殊勝之事ニ候、よって此度忰勘八郎義、新規召抱准中士下等列切米拾石三人扶持差遣、民政局主事支配勧農用懸(かかり)申付候事
  午四月五日        政事堂
(長井手永大庄屋日記)

 
 これを見る限り、玉江・堤・柏木といった「在郷町ゆくはし」を代表する豪商たちは、多額の献金により、士族に格付けされたり、堤のように家屋の税を免除されたりしている。
 この他、行橋市域各手永管轄下の庄屋や小富豪たちも、藩庁造営に当たっては相応の献金をなし、その都度、見返りとしての格式が与えられた(「明治四年豊津県町家帯刀之者言上書」『福岡県史資料』第四輯)。
 こうした献金格付けの制度は藩体制が崩壊するまで続き、維新の諸改革と相まって、農村における身分制秩序の基盤を大きく揺るがしていった。