在郷まちと要港沓尾湊

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 表6は明治三年、現行橋市域の戸数と人口を、各手永(大庄屋)ごとに割り出した数字である。
表6 明治三年 現行橋市域の戸数と人口
久保手永
村名戸数人数
大谷五一二三三
津積三一一四五
上稗田七〇二七八
前田二四一〇七
下検地二七一二三
西谷二三一〇一
下稗田三八一八九
上検地二七一二五
中川一九八〇
三一〇一三八一
黒田手永
福丸二七一一三
入覚一一四五二八
常松一二五五
高来三七一六二
須磨園一三七〇
徳永三七一八〇
二四〇一一〇八
延永手永
延永五六二七七
鳥井原一四六九
吉国二五一一四
二塚三五一四七
上津熊一九一〇〇
下津熊二三一〇三
行事三〇五一四一七
長尾二五一一五
長音寺一〇四二
下崎五〇二三七
中津熊三〇一二五
草野二九一三九
長木四五一九二
六六六三〇七七
元永手永
元永一一三六四一
沓尾八九四七二
高瀬三五一三五
小犬丸二〇九二
馬場二一一二六
稲童一五六七六七
竹田一六七八
大野井四九二一二
袋迫一四七一
金屋三一一四〇
羽根木二二九八
辻垣二九一一九
宝山一〇四六
長江二六一一五
大島一九四七六六
小島一〇一四三〇
松原九三四五二
一〇一九四七六〇
国作手永
福富三〇一五〇
大橋四二〇一八五〇
竹並二七一二〇
福原一五七七
矢留六三三〇一
五五五二四九八
平島手永
平島二八一四七
天生田九四四〇八
崎野二六一三〇
道場寺六一二九五
津留四八一一八
流末二六一一七
今井一六九七九八
柳井田二八一二八
宮市三〇一四二
草場五四二四八
寺畔三〇一一四
五九四二六四五
総合計
村数戸数人数
六一三三八四一五四六九
出典:『京都郡誌』※真菰については出典に記載なし

 この表で明らかなように、現行橋市は、明治四年七月の廃藩置県までは、久保・黒田・延永・元永・国作・平島の各手永の管轄下にあって、総計六一の村で構成されていた。大部分は五〇戸に満たない小さな村だが、この中で、戸数および人口において際立って多いのは、行事村と大橋村である。
 両村共、豊前小倉藩の穀倉とも言うべき京都平野を背景に発達した町場である。東西に流れる長峡川の水運と南北に走る中津街道、それに交差する田川道など、陸路の拠点の地として栄えた領内屈指の在郷まちである。
 長峡川界隈には、後述する『乃木希典(まれすけ)日記』に出てくる、江戸時代の豪商百傑に選ばれた行事飴屋の浜倉をはじめ、柏屋、新屋といった小倉藩を代表する豪商たちの家屋が並んでいた。町なかには、郡内の年貢米を保管する御蔵所をはじめ、藩主の休泊所である御茶屋や郡屋(郡役所)、さらには、各手永の宿が軒を並べ、人々の出入りも多く、藩内最大の在郷町として活気にあふれていた。
 明治初頭までは旧藩時代のこうした面影を残していたが、藩崩壊と共に、漸次これら諸施設も姿を消していった。
 ちなみに時代はやや下るが、明治九年一〇月八日、当時小倉に駐屯していた歩兵第十四連隊の連隊長心得であった乃木希典少佐が、豊前地域で最も風光明媚とうたわれた蓑島に一日旅をした時の日記(和田政雄編『乃木希典日記』昭和四五年、金園社)が残されている。その一部を引用する。
 
平野ノ中央、瓦屋粉壁数百戸、之レ則チ行司、大橋ノ二大市邑(ゆう)ナリ。
市ニ入レバ瓦屋櫛比(しっぴ)シテ、一物モ弁ズ可ラザルハナシ。川アリ、木橋ヲ架ス。中間ニ築嶋アリ。両橋ヲ跨支(こし)スル者ナリ。一橋大凡(おおよそ)十五間余。川ヲ越エズシテ右折スレバ、四里ニシテ香春駅ニ達スルノ道ナリ、両邑(りょうゆう)ノ境界ニ里標アリ。小倉ヲ距ツルコト五里三十四丁ト書セリ。市街ヲ徘徊ス。……
行司ニ飴屋ト云ヒ、大橋ニ柏屋ト云フ、之レ皆有名ノ富豪商。家屋ノ壮厳、実ニ小侯伯ニ比シテ余リアリ。

 
と記されている。明治初期の「在郷まち」行事・大橋の様子を知る上での手掛かりになる。
 大橋の東南約四キロメートルを隔てて沓尾湊がある。元永手永に属し、征長戦争で企救郡をなくした旧小倉藩にとって唯一の要港であった。藩米の上方への積み出し港として、また明治元年二月から始まった東北派兵に当たっての藩軍の出発基地として、平時は勿論、軍事上でも重要な役割をしていた。
 湊の周辺には、仲津郡の年貢米(田中・徳政・有久・あざ見・下原・綾野・上坂の各村)を一時的に収納・保管する藩の蔵屋敷や、御船方役所などが設けられ、船奉行を置いて管理・監督させた。
 沓尾番所奉行平瀬八郎左衛門の御用向日記(明治元年七月~一二月)には、沓尾湊からの奥州出陣の様子や、年貢米の大坂廻米のことなどが随所に書かれているが、その一部を紹介すると、
 
   七月
御出兵御人数沓尾より軍艦乗組居候間、本船まで通ひ船之義見計ヲ以、早々用意下さるべくと存候
 
 八月十四日
夫卒〆
三百五拾人程、玉薬三拾八捕(桶か)、其外目籠賄方手道具品々、右之通申来リ候ニ付、来紙入組、前断仲津郡より参リ居候、御用使ニ持たせ差廻し申候
御銀方役所
 御船方御役所

 
とある。
 小笠原藩の正史とも言える「豊倉記事」の四によれば、慶応二年の沓尾湊の海岸備は、表7のように周辺に台場を造り、大砲を配置するなど周到をきわめた。
表7 慶応二年 沓尾湊の防備
本陣 光円寺重役
原主殿外附属役々
浜手胸牆(しょう)ニ出張三十人
隊長 矢島津盛
上(かみ)ノ台場大砲一挺打方
船方隊 五人
下ノ台場大砲二挺大砲差図役青柳二郎左衛門
船方隊 十五人
山下ノ台場大砲二挺同 楠村専之助
船方隊 十人
裏手台場大砲二挺同 金田雄太郎
船方隊 十人

 ただ、長州との戦いが終わり、止戦協定が成立された慶応三年一月以降、各台場の大砲などは取り外されたと思われるが、かつては小倉藩の重要港として厳しい海岸防備がなされていた。香春・豊津へと藩庁が移転してからも、小笠原治政下の海上交通の要(かなめ)としてこの湊の果たした役割は大きい。
 明治二年六月、香春藩の知藩事になった旧小倉藩第一〇代藩主小笠原忠忱も、上京の際はすべて沓尾湊から乗船している。
 明治四年九月一二日には、前年開設された大橋洋学校の教師として豊津藩が招聘したオランダ人ファン・カステールも、東京から海路沓尾湊に上陸し、この地に二日滞在したのち、飴屋が提供した行事西町の寓居に入っている。
 こうした資料から分かるように、往時の沓尾湊は、要人の出入・見送り、天候異変による一時滞在などで、大いに賑わったと思われる。今はすっかり変わり果て、わずかに当時の船着場の石垣のみが残っている。
 石垣といえば、沓尾山の南西麓は地質的には平尾花崗閃(せん)緑岩である。
 ちなみに、元和六年(一六二〇)、豊前小倉城主細川忠興が幕府から大坂城再築普請(乾櫓(いぬいやぐら)のある西の丸最北隅の一一七間余の石垣構築)を割り付けられた際、筆頭家老長岡式部少輔(松井興長)宛の書状(同年五月二八日付)の中に、
 
、沓尾より之(の)大角(すみ)(大きな角石)、其地(大坂)へ着之由、珍重(ちんちょう)(よろこばしい)候事
(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』七 八代市立博物館刊)

 
とあり、沓尾山の平尾花崗閃緑岩が大坂城の石垣用として切り出され、沓尾湊から大船にて大坂に搬送されていたことが分かる。
写真21 右手一帯の石垣付近が旧沓尾湊(現行橋市沓尾 平成11年撮影)
写真21 右手一帯の石垣付近が旧沓尾湊(現行橋市沓尾 平成11年撮影)