「詔書」の下付

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 明治四年(一八七一)七月一四日、皇居大広間にて、天皇出御のもと、在京五六の藩知事を召集して廃藩置県の詔書が下付された。それは、版籍奉還の際の藩主届出方式とは違って、勅命方式による上からの一方的な命令であった。詔書は、右大臣三条実美が宣した。
 
朕惟(おも)ふに更始の時に際し、内以て億兆(おくちょう)を保安し、外以て万国と対峙(たいじ)せんと欲せば、宜く名実相副ひ政令一に帰せしむべし、朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納し新に知藩事を命じ各其職を奉ぜしむ、然るに数百年因襲の久き或は其名ありて其実挙らざる者あり、何を以て億兆を保安し万国と対峙するを得んや、朕深く之を慨す、仍て今更に藩を廃し県と為す、是務て冗(じょう)を去り簡(かん)に就き有名無実の弊を除き政令多岐の憂無らしめんとす、汝群臣其れ朕が意を体せよ
(『太政官日誌』)

 
 これにより、二六一の藩は一斉に廃され、県とされた。この日、旧藩の大参事などの重役に対しては、当分の間それまでの事務の処理を続けるよう達せられた。東京を離れて管轄地にいる旧藩知事には、九月中に帰京することが命じられた。
 廃藩置県の詔書は、やがて郡内大庄屋を通して村方に知らされた。
 「長井手永大庄屋日記」には、七月二三日、藩の民事課より仲津郡大庄屋宛に、次のような通達が出されたことが記されている。
 
御郡中御高札、知事公御名有り候分、至急御取はづさせなさるべきとの義ニ御座候、以上
  七月廿三日        民事課

 引き続き郡宰役、酒井少属(さかん)(旧郡代の補佐)より、
 
左之通仰出られ候間、御郡中人別洩落なく早急申触らるべく候也
  七月廿四日        酒井少属
   仲津郡大庄屋中
 
此度藩を廃シ県を置かれ候、つきては知藩事様御事御免職相成候事
士族卒平民縁組勝手次第ニ候事
衣食住制度、藩之適宜を以申付置候所、此度県ニ相成候ニ付ては、天下一般御規則相立候まで、持来之品相用候てくるしからず候、勿論分限不相応之義なき様 きっと相心得申すべき事
平民乗馬差免候事

 
 これら相次ぐ村方に対する触(ふれ)を見る限り、旧藩知事が急に去ることになった驚きと不安はあったにせよ、特に廃藩に対しての混乱と不穏な動きは記されていない。むしろ、藩からの通達を遵守するように、といった記述に終わっている。
 勿論、廃藩置県それ自体、直接的には旧藩そのものに関係したクーデターであり、旧藩知事や藩士の身分、生計に大きく関係したとはいえ、末端の農民の生活には直接的な変化をもたらす措置ではなかっただけに、廃藩については農民たちもそれ以上の強い関心をもたなかったと推察される。