此度藩ヲ廃シ県ヲ置かれ候付、従五位様御事知事職御免相なり候間、おって東京へ御引越ニ相成申すべし、つきては是迄御管轄之義ニ付、来月朔日士族、同二日卒御逢なされ候ニ付、五ツ時ヨリ九ツ時迄之内育徳館へ罷出られたく、此段至急御通達ニ及び候也
七月廿五日 家令
士族 中
卒 中
七月廿五日 家令
士族 中
卒 中
なお、この通達については、七月二八日に日限の変更があり、八月三日に士族、四日に嫡子・子弟および卒、となった。
こうして豊津藩は廃止となり、豊津藩知事の小笠原忠忱はその職を解かれ、「華族令」によって家禄と華族としての身分を保証され、東京に移住することになった。
東京移住が決まった忠忱は、八月三日、藩士一統を育徳館に集め、これまでの精忠に感謝の意を表し、「仁」、「義」、「礼」、「智」、「信」など一字ずつ書いた親書を与えて、別離の盃を交わした。かねて予期していたとはいえ、あまりにも突然の大変革に藩士たちは落胆、驚愕、憤慨、納得と様々であったが、間もなく冷静に事態を受け止めるようになった。
かつて藩主忠忱の待講を務めた鎌田思誠は、当日の様子を「戴恩筐底録(たいおんきょうていろく)」という遺訓録の中で、「藩士残らす恐怖、慨嘆、悲傷に勝(たえ)す、暫の間、言葉なかりき」と記している。
藩士との離別を済ませた忠忱は、領民との別れのため、八月七日から二五日にかけて領内を廻郡し、これまで協力をもらった大庄屋らに次のような言葉をかけた。
今度御改革にて、藩を廃し県に改められ、我ら知事職御免なされ、ついては、追々東京へ引越し候、年久しく村々居り合い宜しく、農業心掛け、畢竟(ひっきょう)朝廷の思し召しを受け、沙汰に及び候趣を能々相守り候処よりの義と我らにおいても満足の事に候、この後益々もって御趣意を相守り、一同農業を出精いたし、御上の御為に相成候の様、精々心掛けるべし、この旨くれぐれも申し聞かせ置き候也
(「長井手永大庄屋日記」明治四年八月七日条)
この忠忱の廻郡に当たっては、事前に八月四日付で、藩庁より大庄屋各位宛に、その順道などについての通達が出されていた。
八月四日
従五位様御廻郡ニ付ては御泊所ニて其凡(すべて)の方へ御逢なされたき御沙汰ニ付、此旨相心得らるべき候也
八月四日 酒井少属
大庄屋中
従五位様御廻郡ニ付ては御泊所ニて其凡(すべて)の方へ御逢なされたき御沙汰ニ付、此旨相心得らるべき候也
八月四日 酒井少属
大庄屋中
(「長井手永大庄屋日記」)
なお、従五位様廻郡の際は、農民たちにも逢われるようだから、それぞれ最寄の道筋で平伏して拝見しても構わない、という達しも付加されていた。
行橋関係の廻郡日程を抜粋すれば、次の通りである。
八月 | 十三日 | 上稗田御泊 |
十四日 | 下稗田村大分社にて久保手永御逢済(すませ)、同夜、行事御泊 | |
十五日 | 行事にて延永手永御逢済 | |
十六日 | 大橋御泊 | |
十七日 | 大橋正八幡宮参拝、国作・平島両手永御逢済、元永御泊 | |
十八日 | 元永手永御逢済、今井祗園社参詣 |
廻郡はこのあと、築城・上毛郡へと続けられ、一九日間にわたる日程を消化して、同二五日に無事帰館した。この間、六〇歳以上の老人には、男女を問わず長寿を祝う言葉がかけられた。
上京に先立ち、忠忱東京移住の話を聞き、領内各郡からは米、酒、藩札、旧藩士・領民からはたくさんの金銭、物品(着物、菓子、餅、玉子、干物)などが献上された。これに関しては、「長井手永大庄屋日記」並びに小笠原家の家扶局が記した「従五位様御発途ニ付差上物控」に詳細に記録されている(『資料編』近世に所収)。
小笠原家家扶岡出衛の自伝的記録によれば、出発前日の九月一八日には、二崎に隠棲していた島村志津摩が離別の挨拶に参上。忠忱は奥座敷にて対面し、酒を授けて藩の功臣島村との別れを惜しんだ。
一 | 〓(い)(奥御殿)内ニ嶋村殿御出ニて御酒下され有り、右御相手ニ出ル(「出衛存命中之事条荒増控置者也」豊津町歴史民俗資料館所蔵) |
忠忱が東京へ向かうため豊津を離れたのは、明治四年九月一九日である。当日の出発の様子については藩庁控(『資料編』近世に所収)にもあるが、「長井手永大庄屋日記」及び「中西与七生涯略記」の記録からも知ることができる。
九月十九日 晴天
今日、従五位様東京ヘ御引越ニ付御乗船、尤五ツ半時(午前九時頃)内家御出途、八ツ時分(午後二時頃)御乗船
右ニ付拙者豊津ヨリ御供致、御乗込後今井役宅ヘ三郡会合今晩大橋泊
御順道、大手御門ヨリ天生田通リ大橋町御通駕、大橋正八幡宮、今井中須宮御小休
今日、従五位様東京ヘ御引越ニ付御乗船、尤五ツ半時(午前九時頃)内家御出途、八ツ時分(午後二時頃)御乗船
右ニ付拙者豊津ヨリ御供致、御乗込後今井役宅ヘ三郡会合今晩大橋泊
御順道、大手御門ヨリ天生田通リ大橋町御通駕、大橋正八幡宮、今井中須宮御小休
(「長井手永大庄屋日記」)
九月十九日
発駕四ツ時(午前十時)ナリ。郡大キイ村ヨリ五人。小村ハ二、三人。百姓惣代トシテ、駕ヲ送ル。天生田川原ニテ、送別ノ事アリ(以下略)
発駕四ツ時(午前十時)ナリ。郡大キイ村ヨリ五人。小村ハ二、三人。百姓惣代トシテ、駕ヲ送ル。天生田川原ニテ、送別ノ事アリ(以下略)
(「採銅所町中西与七生涯略記」)
忠忱の出立時刻が違うのは、当時日の出・日の入りを時刻の基準とした不定時法をとっていたのでその認識の違いからきたと思われる。いずれにせよ、この記述から察するに、忠忱は九月一九日午前九時頃、内家(旧藩庁)を出発、大手御門から本町・錦町筋を経由、天生田大橋を通り、今川川畔にて領民たちに別れの言葉を述べた。沿道は、忠忱の東京移住の中止を嘆願する領民たちを予想して要所要所で厳しい警護がなされた。
忠忱一行はその後、大橋正八幡宮に参拝。今井中須宮(現、真菰北山神社)にて休憩のあと、沓尾湊より大小参事以下大勢の役人、領民に見送られて、午後二時頃、沖に停泊中の軍艦にて東京に向かった。
これより先、廃藩置県により豊津藩は豊津県へと移行、四カ月後には一国一県を目途とした県の統廃合で小倉県となり、県庁は小倉室町に移転した。この結果、豊津の城下は未完成のまま、新時代の風雨の中で取り残された。
かつて郷土の村民たちが、汗と埃にまみれながら、精魂を傾けて造り上げた藩庁も、藩知事の屋敷も取り壊され、残ったものは売却された。
かくて、譜代小倉藩の最後の拠り所となった豊津城下町の面影は、旧藩知事忠忱の上京により急速に変貌していった。
東京牛込河田町の旧藩下屋敷に帰ってからの忠忱は、明治六年から同一一年七月まで、英国ケンブリッジ大学に留学。帰国後の同一七年七月に伯爵。同二三年七月から貴族院議員に選任され、死去するまでの七年間国政に関与した。
明治三〇年二月、旧小倉藩主小笠原忠忱は、東京市ケ谷の邸にて病没した。享年三五歳。明治政府は彼の生前の功に対して従三位勲三等瑞宝章を贈った。
墓は浅草海禅寺にあったが、大正一四年(一九二五)五月、多摩霊園の小笠原墓地に改葬された。