入覚字カミに鎮座し、玉垣で囲われた境内は小高い丘をなし、石段を登った高台上、参道の正面に東面して両側に廻廊を従えた拝殿、その背後に神殿が建つ。応永期(一三九四~一四二八)に兵火に罹り、その後現在地に移転したと伝えられる。神殿については、正徳四年(一七一四)の上棟を記した棟札写し、「五社八幡宮神殿一宇造営」と記した文政一一年(一八二八)と文久三年(一八六三)の棟札が残され、拝殿については、「五社八幡宮拝殿一宇造営」と記した文政一三年の棟札が残されている。廻廊は大正一一年(一九二二)の建築である。
神殿は三間社流造、銅板葺、正面三間、側面二間、向拝一間を付し、軒は二軒、繁垂木を配り、軸部は素木の杉材を用いる。
雨葛に布石一段を巡らし、布石磴石上に土台を敷き、円柱を建て、地長押・切目長押・内法長押で固め、頭貫を通して繰型木鼻を付し、台輪で繋ぐ。組物は三手先拳鼻付、蛇腹支輪、流水、雲と波を象った軒支輪を三段に重ねる。中備は蓑束、妻飾は二重虹梁大瓶束笈形付、拝(おがみ)懸魚に蕪懸魚を吊る。
正面に浜縁と木階六級を設け、三方に切目縁を巡らし、脇障子を建て、擬宝珠高欄を巡らす。柱間は正面に蔀戸を建て、側面と背面は横板を嵌める。内部は畳敷とし、竿縁天井を張る。
向拝は上部に粽(ちまき)を施した几帳面取方柱を建て、水引虹梁を通し、海老虹梁で繋ぎ、象の彫刻木鼻を付す。組物は出三斗、中備は蟇股と唐獅子牡丹の彫刻、手挟は梅に鳥の籠彫とする。軒は二軒、繁垂木を配る。
軒支輪を三段に重ね、尾垂木を備えた三手先が目を引く装飾性豊かな社殿である。高欄擬宝珠にも「文久三癸亥歳」の銘が見え、棟札が示す文久三年の建築と見なせる。
拝殿は正面五間、側面三間、向拝一間を付した大型拝殿で、屋根は平入りの切妻造桟瓦葺、軒は一軒、疎垂木を配る。軸部は素木とし、身舎が杉材を用い、向拝が欅材を用いる。
雨葛に布石一段を巡らし、正面に石階一級を設け、切石礎石上に切面取の方柱を建てる。内法貫・頭貫を通し、繰型木鼻を付し、台輪で繋ぐ。組物は平三斗拳鼻付、内側は出組とするが、軒支輪は設けない。妻飾は二重虹梁大瓶束、下段虹梁上に大蟇股を載せる。
正面に切目縁を設け、擬宝珠高欄を建てる。柱間は三方を吹放ちとし、背面に腰壁を設ける。床は拭板敷、天井は中央に絵入り格天井、両脇に竿縁天井を張る。
向拝は切石礎石上に石製礎盤を据え、切面取方柱を建て、水引虹梁と繋虹梁を通し、象と獅子の彫刻木鼻を付す。組物は出三斗、中備は出三斗と本蟇股を載せる。軒は一軒、疎垂木(まばらたるき)を配る。
妻飾の一部に後補材が用いられるものの、虹梁絵様と蟇股は一九世紀前期の特色を示し、建築年代は棟札が示す文政一三年に遡ることは疑いない。内部の天井を支える出組が目を引く開放的な大型拝殿である。
ともに建築年代を証する史料も残し、建築年代が江戸期に遡る社殿の中では、三手先を備えた神殿は最も装飾性豊かな社殿として、拝殿も正面五間を測る最も大型の社殿として貴重な存在と言えよう。