大谷字近池に鎮座し、集落から隔たった山中の参道を進んで降った平地に南面して境内を構える。樹林が周りを取り巻く中、正面に拝殿、背後に幣殿、さらに背面後に神殿が建つ。旧記が残らないため、由緒来歴は不明である。神殿には「元禄元年辰従十二月同二年己九月成就仕者也」、「奉建立小烏大明神御神殿」と記した棟札が残され、拝殿と幣殿は『京都郡誌』が安政六年(一八五九)の再建と記している。
神殿は三間社流造鉄板葺、正面三間、側面二間、向拝三間を付し、軒は二軒、繁垂木を配り、軸部は素木の松材を用る。
石垣積の基壇を築き、壇上に自然石礎石上に土台を巡らし、円柱を建てる。切目長押・内法長押で固め、頭貫を通して繰型木鼻を付す。組物は二手先、流水に鯉を象った軒支輪を設ける。妻飾は二重虹梁大瓶束笈形付、下段中備に彫刻、上段には出組を載せ、蛇腹支輪を設ける。
正面に浜縁と木階五級を設け、三方に切目縁を巡らし、擬宝珠高欄を建て、脇障子を設ける。内部は畳敷、竿縁天井を吊り、内陣に平入り切妻造宮殿を三基収める。柱間は正面に蔀戸を吊り、側面は横板を嵌める。
向拝は几帳面取の方柱を建て、切目長押で固め、水引虹梁を通し、麒麟の彫刻木鼻を付す。組物は出三斗、中備も出三斗を載せる。軒は二軒、繁垂木を配り、海老虹梁で身舎と繋ぎ、手挟は取り除かれている。
木鼻と虹梁の絵様が一九世紀前期の特色を示していることから、建築年代は江戸後期まで降ると判断される。
拝殿は正面五間、側面三間、向拝一間を付す。屋根は平入り切妻造桟瓦葺、軒は一軒、疎垂木を配る。軸部は素木とし、身舎が杉材、向拝が松材を用い、雨葛は布石一段を巡らし、切石礎石上に木製礎盤を載せ、切面取りの方柱を建て、内法貫・頭貫を通し、繰型木鼻を付す。組物は平三斗、中備は正面中央間のみ間斗束を載せる。妻飾は二重虹梁大瓶束、下段には大墓股を載せ、蕪懸魚を吊る。柱間は格子戸を建てた背面を除く三方を開放とし、床は拭板敷、中央間を絵入格天井、脇間を竿縁天井を張る。
向拝はコンクリート製礎盤上に切面取の方柱を建て、水引虹梁を通して象の彫刻木鼻、繋虹梁を通して繰型木鼻を付し、菊を象った手挟を設ける。組物は出三斗、軒は一軒、疎垂木を配る。
大蟇股と虹梁絵様が一九世紀中期の特色を示すことから、安政六年の建築と判断される。なお、幣殿は正面が広い一間、側面二間、屋根は妻入りの切妻造桟瓦葺で、拝殿と同年の建築と見られる。
神殿、拝殿、幣殿ともに建築年代が江戸後期に遡り、社殿を取り巻く境内の環境も優れ、この地域の神社建築の基準となる社殿として貴重である。