4 行橋の平安仏

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 ここまで、行橋ゆかりの一〇躯程度の仏像について紹介してきた。修理によって姿を変えていたり、朽損が進んでいたりという姿を見て、あるいは実感されにくいかもしれないが、これらの仏像は、行橋の歴史を考えていく上で、大きな意義をもった存在である。まず第一に、古いというだけで尊重すべきである。古い仏像が遺っているということは、その地に古くから現在に至るまで連綿と、像を護持する信仰基盤が保たれてきたことを窺わせる。その意味で個々の仏像は、地域の信仰の記念碑的な存在だということができる。しかしそのような個々の意義に加えて、集合することで生まれる意義もある。平安時代では、後期の作例が一群として遺っているが、この一群は、行橋の歴史についていろいろなことを示唆(しさ)してくれる。一般に平安時代後期においては、仏教文化が全国的に隆盛したとされているが、実際のところそれぞれの地域がどのような様相を呈していたのかということまでは、言及するのが困難な場合が多い。この地の一群の仏像はその中で、行橋の地も確かに隆盛の波の中にあって、繁栄を見せていたことを伝えている。そして周辺を見回したとき、確かに一大聖地であった宇佐・国東(くにさき)の地や、求菩提山(くぼてさん)周辺は特別で、ここにはもっと多くの古仏が伝えられているとはいえ、一つの地域で一〇件遺っているというのはやはり目を引き、行橋の地が拠点的な地域の一つであったことを偲ばせる。
 作風や技術的な面からも興味深い傾向が窺える。ここには、桧材の寄木造で都ぶりに洗練された作風をもつ、畿内の流行をそのまま反映した作例は、一躯も遺されていない。長い年月の間に失われた可能性を考慮しなければならないが、しかしかつて存在していたにせよ、それが主流だったということはないだろう。行橋の平安時代後期の仏像は、全てが一木造で、樟を材とする作例も多く、そして総じて大らかで簡潔な表現を見せていたことが看取される。同様の作風や技法の傾向を見せる作例は、宇佐・国東のお堂や、求菩提山周辺に多く遺されており、これらと同じく行橋の仏像は、地域に根差した信仰文化の中から生み出されたものだと考えることができる。当地には、平安時代後期から中世にかけて、宇佐八幡宮や、その神宮寺である弥勒寺(みろくじ)の荘園が広がっていたことが確認されているが、地理的な条件に加えて、そのような関係からの宇佐の影響を、ここに想定してみることも可能であろう。それにしても、奈良時代から繁栄が知られる草野津を擁し、国内最大の交通路だった瀬戸内海の、西の突き当たりに位置する交通の要衝(ようしょう)として、都の動向には敏感だったはずなのに、信仰面ではこのように在地的な色彩が強く感じられるのは、この頃の行橋の地を考える上で看過できない現象だと言えよう。なお、ここでは最後に、このように古の行橋の在り方を示唆してくれる平安仏が、一躯を除いて全て、寺院ではなく、お堂あるいはそれに類する施設に安置されていることに注意しておきたい。この中には、当初は寺院、あるいは神仏習合思想を背景として神社に安置されておりながら、いつの頃か信仰面で大きな転換期があって、造像安置していた場が衰退し、その後は地域の人々の信仰に支えられて現在に至っている場合が、少なからずあると考えている。そのような転換期についての検討も、この後の課題にしていかねばならない。