1 仏教と仏像の新しいかたち

815 ~ 817 / 898ページ
 平安時代の終わり頃、仏像の姿に変化が起きる。平安時代後期には、定朝によってつくり出された円満整美で夢見るような仏が、百年にわたってあるべき姿とされて、長らくそれに倣(なら)った仏像が造られ続けていたのであるが、そのような、いわゆる定朝様(じょうちょうよう)の仏像とは明らかに一線を画する仏が、当時の造像界の中心である京都から離れた、奈良の地で生まれたのである。仁平(にんぺい)元年(一一五一)に造像された、奈良・長岳寺の阿弥陀三尊像(写真15)がそれである。この像は、定朝様の仏像の穏やかな丸みをもった大人しげな身体とは異なって、張りきって充実した身体をもち、衣文も、穏やかな弧を描きつつ平行に整えられた、浅く丸みをもったものとは異なり、あるものは枝分かれしたり、あるものは折れ曲がったりしながら力強く刻み込まれている。既に印象はかなり異なっているが、面部を見るとさらに強く異質性は実感できる。そこには、目を半眼(はんがん)にして瞑想するかのような静かな表情ではなく、意志的で力のこもった表情が浮かんでいる。丸々と張りきりながら、口元は強く引き締めたりと、肉付きに充実感と抑揚があることもさることながら、この表情をつくり出している最も大きな要素は、目である。

   

写真15 奈良・長岳寺 阿弥陀三尊像のうち阿弥陀如来坐像
    水野敬三郎監修『日本仏像史』(美術出版社、2001年)


 
 目の輪郭や瞳の向きがつくり出す眼差(まなざ)しを、さらに、玉眼が現実感をもって強めている。玉眼とは、彫り透かした目の部分に、頭部の内側から、瞳を描いた水晶製の目をはめ、これに綿や紙などをあてたのち、竹釘等を用いて押さえて固定する技法で、この技法により仏像の目は、現実の目のような質感をもつことになる。蛍光灯の明かりの下でも効果的に見えるが、灯明のあかりのみの薄暗い堂内で、揺らめく火影(ほかげ)を映す玉眼は、まるで意志あるかのごとく見える時がある。玉眼は、この長岳寺の阿弥陀三尊像を嚆矢(こうし)として、鎌倉時代以降多用されるようになる技法である。なお、この阿弥陀三尊像の作者が誰であるのかは定かでないが、鎌倉時代の新たな仏の姿を確立した、運慶や快慶らいわゆる慶派仏師(けいはぶっし)の先覚者の、さらなる先達だと考えられている。玉眼という新技法をともなって長岳寺の阿弥陀三尊像に芽生え、運慶らによって確立された意志的で現実的な作風が、源頼朝が権力を確立した文治元年(一一八五)から、元弘三年(一三三三)に鎌倉幕府が滅亡するまでを期間とする、鎌倉時代の作風の基調となってゆく。そしてこの新しい作風を完成に導き、彼ら慶派の活躍を推し進める上で大きな力となったのが、治承(じしょう)四年(一一八〇)の平重衡の焼き討ちによって壊滅的な被害を受けた、東大寺や興福寺など奈良時代以来の寺院を再興しようとする、南都(なんと)復興の動きであった。この復興運動の中で行われた膨大な数の造仏が、その後の慶派と鎌倉時代の造像活動が向かう先を、定めることになったと言っても過言ではない。
 この復興については、奈良時代の風を尊重し、そして、再び強まった中国への志向により、宋(そう)国の風を積極的に摂取しながら進められたことに特徴があるが、慶派の新しい作風は、このような傾向と軌を一にするものであった。つまり、前代から次第に醸成(じょうせい)されてきた現実感への志向に、奈良時代や平安時代初期の仏像など古典の学習、そして宋の仏、とくに仏画からの影響とが掛け合わさって、新しい仏の姿は生み出されたのである。もちろん、慶派の仏師達が前代の権力者と関係が薄かったという、政治的背景も関係しているのであろうが、彼らのつくり出した作風が、貴族が主役の平安時代から、武士が主役となった鎌倉時代の気風に、よく馴染(なじ)むものでもあったからであろう、南都復興と時を同じくするように関東地方で始められた、鎌倉幕府関係の造像では初めから、慶派の仏師達が重用されたことが知られている。そして彼らは、いわゆる院派(いんぱ)や円派(えんぱ)といった、前代の余韻を遺す守旧的な作風をもった仏師集団が活躍を続ける京都においても、大きな力を持ち始める。やがて彼らは本拠を京都へと移しながら、変わらず貴族層の支持を受けていた院派や円派の仏師達と、競合し時に協業しつつ、鎌倉時代において慶派とその作風は、造像界において一際目を引く存在になっていったのである。なおちなみに、先ほどから登場している、慶派、院派、円派などという仏師の流派については、その流れの中にある仏師がそれぞれ、慶、院、円の字を名前に含むことが多いため、そのように呼んでいるものである。これらの三派は、全て平安時代後期の定朝の流れを汲むとされ、造像界を後世に至るまで長らく主導した、最も伝統と権威をもった存在であった。
 さて、量的には平安時代後期の隆盛には及ばないにしろ、この鎌倉時代にも、多くの仏像が造像されている。そしてそれはもちろん、南都復興という一つの事件や、新しく成立した鎌倉幕府の動向にのみよるものではなかった。それはまた、この時代に相次いで起きた、宗教面での革新的な動きとも連動している。現在に至るまで広く多くの信仰を集める、法然(ほうねん)を開祖とする浄土宗、親鸞(しんらん)を開祖とする浄土真宗、一遍(いっぺん)を開祖とする時宗(じしゅう)、日蓮(にちれん)を開祖とする日蓮宗、栄西(えいさい(ようさい))を開祖とする臨済宗、道元(どうげん)を開祖とする曹洞宗などの、いわゆる鎌倉新仏教が生まれたのがこの時代であったし、また旧来の仏教の側からも、仏教の原点たる釈迦への回帰を熱く説く明恵(みょうえ)や、真言宗を学び特に戒律(かいりつ)を重視して真言律宗(しんごんりつしゅう)を打ち立てた叡尊(えいそん)が登場するなど、まさに鎌倉時代は宗教革命の時代といった感がある。それぞれの説くところは異なり、中には造仏活動に積極的ではない宗派もあるとはいえ、華厳宗(けごんしゅう)や法相宗(ほっそうしゅう)をはじめとする南都六宗と、真言宗と天台宗の、旧来の八宗に加え、これら新たに生まれて一大潮流をなしつつ展開する宗教活動の波は、確かに多くの新しい仏像の造像に結びついたのであった。