2 南北朝時代と室町時代の作例

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 先に存在に触れた、院派仏師の手になる二躯の像から始めよう。まずは、下津熊の大儀寺(曹洞宗)に本尊として安置される、六本の腕と立て膝で坐る姿が特徴的な、如意輪(にょいりん)観音坐像(写真26)である。像高六一・二センチメートル、桧材の寄木造で玉眼を嵌入したこの像の、右足、左足、体部、頭部と、大小の四角い塊を組み合わせながら重ねたような体型、切れ長の目と太い鼻を配した、やや下膨れで頬が長い面部、左足に見る、足首から膝そして股間へと、釣り針のようなかたちをして流れる一本の太く深い衣文をはじめ、強く屈曲してあらわされる衣文や衣の縁、そしてそれらの総体としての癖の強い姿は、正しく南北朝時代の院派の典型的な作風を見せている。造像は一四世紀の半ば頃から後半にかけてであると推定される。構造については、頭体の幹部は基本的に、頭体を通して前後二材よりなり、割首としているようであるが、前面材と背面材の間には頭体ともに、薄い材を挟んで奥行きを増している。木寄せが細かいことについては、古くは動きのある姿勢に対応するためでもあったようであるが、この像の場合は主として、材の節約に結びついているものだと考えられる。大きな材で造って沢山内刳するよりも、板状の材を適宜箱状に組み合わせながら小さく内刳をした方が、材木と労力の無駄は少ない。寄木造は新しくなるにつれ、このような観点からの合理性を高めていく傾向が見受けられるようである。その他この像は、右足の上部を除く膝前を一材から彫出し、この上に立て膝とした右足の上部をのせ、そしてさらに、別材よりなる髻、腕、腰脇などを矧ぎ寄せている。この如意輪観音坐像については、面部の漆箔が剥落したり腕が破損したりと、損傷は見受けられるものの、近年目につくようになった、当初の姿に配慮の薄い激しい修理を受けていないために、南北朝時代の院派仏師の作らしさはよく保たれている。
 

写真26 大儀寺 /p如意輪観音坐像


 

写真26-2 大儀寺 如意輪観音坐像 側面


 
 もう一躯の院派仏師の作だと見られる仏像は、元永の永瑞院(曹洞宗)の本尊薬師如来坐像(写真27)である。像高三六・二センチメートル、桧材の寄木造で、玉眼を嵌入している。近年の修理を受け、厚い漆箔によってやや細部が甘くなっているとはいえ、この像の場合は、当初の姿を窺うことが困難な程ではなく、比較的よく面影を遺している。そしてこの像の、切れ長の目と長い頬をもった四角い顔や、左臑の釣り針状の衣文をはじめとする屈曲の強い衣文、ずんぐりと角張った体型は、大儀寺の如意輪観音坐像同様、院派の特徴をよく見せている。大儀寺の像に比べると、厚い彩色がかぶっているせいもあってか、作風はやや大人しく感じられて、造像の時期については、南北朝時代の末から室町時代の初頭としておくべきかと思われ、作風面での院派らしさは、大儀寺の如意輪観音坐像に一歩譲る感がある。ただし実は、構造面についてはこの薬師如来坐像の方が、院派の仏像らしい特徴を見せているのである。この像の構造は、頭部は前後二材で、体部へと挿し込む挿首(さしくび)とし、体幹部は前後二材で、両肩先は地着に至る縦材よりなり、この主要部に、一材から彫出した膝前や、袖口、手先、脚の前に薄く扇状に広がる裙の先などを矧ぎ寄せているもので、一見すると何ら変わったところはないようである。しかしこの像の像内の仕様は、一風変わったものである。この像は、体幹部前面材の地着中央を束(つか)状に形成して、前面材が沈み込まないための支えとし、また、体幹部前面材と背面材それぞれの内側には、地着きから六センチメートル、腰辺りの高さに左右一本ずつ、水平方向に突き出た束を彫りのこしており、この束の頂部を合わせて前後を連結することで、前面材と背面材の連結を強固なものとする工夫がなされているのである。このような像内の仕様は、必要以上に像内をきれいに浚って整えることと併せ、南北朝時代に院派の仏師が確立した、同派の特徴として知られているものである。手先などが後補であるが、構造の基本について考える時には問題ではない。南北朝時代を主導した院派の作風と構造は、これら、大儀寺の如意輪観音坐像と永瑞院の薬師如来坐像の二像をもって、よく理解することができるだろう。
 

写真27 永瑞院 薬師如来坐像


 

写真27-2 永瑞院 薬師如来坐像 側面


 

写真27-3 永瑞院 薬師如来坐像 像底


 
 一般に南北朝時代から室町時代にかけては、仏像の作風が形式化していくとされることが多い。ただしその中でしばしば、頂相(ちんそう)彫刻には見るべきものがあると言及されることがある。頂相とは、禅宗僧侶の肖像のことである。鎌倉時代に禅宗がもたらされて以降造像されるようになった頂相彫刻は、誕生した鎌倉という時代の、現実的傾向を強くもつ時代性と、肖似性(しょうじせい)が求められる肖像彫刻本来の性格を受けて、日本の伝統的な造形の中ではやや異質な感もある写実性を特徴としながら、鎌倉時代後期以降次第に多く造像されるようになっていった。南北朝時代から室町時代へと進むにつれて、仏像が、鎌倉時代の作例がもっていた現実感を希薄にしていく中でも、頂相彫刻はしばし迫真性を保ち続けたとされる通り、とくに官寺である五山系の寺院に安置されているこの頃の頂相などは、頭部を見ると、骨格にしろ肉付きにしろ目つきにしろ、向き合うと実人に対しているような気を起こさせる作例がある。豊前地方においては、隣接する筑前や豊後の活況に比べると、五山系寺院の活動は希薄で、また五山系にとどまらず禅宗ということで言っても、やや等閑視されてきた感があり、行橋では従来全く頂相彫刻の古例は知られていなかったのであるが、調査を進める中でようやくその存在を知ることができた。それは高来の天聖寺(曹洞宗)に安置される、開山上人の坐像(写真28)である。
 

写真28 天聖寺 開山上人坐像


 

写真28-2 天聖寺 開山上人坐像 側面


 
 法衣(ほうえ)を着けた上から袈裟を掛け、坐禅(ざぜん)の時の坐り方である結跏趺坐(けっかふざ)をして椅子の上に坐り、椅子の前面に衣の下方を垂下させるという、頂相通例の姿をしたこの像は、坐高で六五・〇センチメートル、垂下する衣の下端から頭頂までの総高では、九〇・六センチメートルを測るという、等身よりやや小さめの像である。頂相については、はじめ等身大であったものが、時代が降るにつれて小振りになっていく傾向があり、江戸時代には坐高一尺程度のものも少なくない。ただ、やや小振りなことに加え、厚い後補彩色により、細部が埋まって緩和された感じに見えるとはいえ、頂相彫刻の魅力である迫真性は失われてはいない。正面を向き、目をかっと見開いて口元を引き締め、しっかりとした肉付きをもった頭部は、像主の面影と威厳を今に伝えてくれている。一方体部については、同時代の仏像と軌を一にした、類型的でやや単調な表現がなされているように見えるが、これもまた頂相彫刻の特徴なのである。類型的な体型は、量産に向くのみならず、迫真的な頭部を、さらに引き立たせる効果をもつ。頂の相と書く如く、頭部の表現が最も重視される頂相において、頭体の対照的な表現が意識されたことは、確かに自然なことであろう。構造については、桧材の寄木造で玉眼を嵌入しているということの他は、現状では多くを知ることができない。椅子前面に垂下する衣が一材よりなっていること、頭体部は大きく内刳を施しており、複数の材を規則的に組み合わせて構成しているらしいことが分かる程度である。造像の時期については、室町時代の前半であろうと考えるが、これ以上絞り込むことは難しい。椅子前面に垂下する衣の裏面には、墨書があるものの、「豊前」「開山」「五拾」などという語が断片的に確認できるほかは、擦り消したように消えており、参照し得ないのは残念である。ただ寺に伝わる記録によると、天聖寺は、応永一八年(一四一一)に世を去った玉山全珊という曹洞宗の僧により、室町時代以降の曹洞宗展開の一大拠点となった、豊後国東の泉福寺の末寺として、応永年中に開かれたという。必ずしも、当初からこの寺に安置されていたという確証はないものの、記録に見える寺の草創期に造られたものだとすると、像の作風には矛盾しない。行橋でついに確認された頂相彫刻の古例として、尊重すべき作例である。
 南北朝時代から室町時代の前半にかけて造像された、三躯の仏像を紹介したところで次に、行橋には、これらに通ずる時代性を感じさせる、一群の奇妙な仏像が存在しているので、それらを紹介してみたいと思う。それは木造ではなく、素焼きで型作りの、陶製地蔵菩薩坐像である。津留の法蔵院(西山浄土宗)と大橋の個人宅に、ほぼ完形のもの(写真29・30)があり、その他天聖寺に頭部が二つと体部が二つ、下検地の個人の敷地にある阿弥陀堂に体部が一つ所在していることが知られる。裙と法衣を着けた上から袈裟を掛けるという服装や、右手は掌を上に向けて膝の上におき、左手は胸の前で宝珠を持つという手の構えは、平安時代の地蔵菩薩にしばしば見られる伝統的なものだと言えるが、まるで頂相彫刻のように、椅子あるいは台の上に坐って、衣の下半が前面に垂下している様子は、これらの像特有の像容である。型が複数あったためか、途中で傷んで型を改変したためか、五つの珠(たま)を連ねた飾りを三条、川の字状にあらわした、胸飾りを持つものと持たないものがあるものの、一見して皆原型を共有しているものと看取される。つくり方としては、頭部と体部を前後のあわせ型にてそれぞれつくり、首にて頭体を接合して、体部については像底から、串状のもので三角錐状に内部を刳(く)りとり、そして焼成しているというものらしい。年代については、類例に恵まれていないため、木彫像と比較することで考えてみると、この陶製地蔵菩薩坐像は、やや幅をとるにせよ、南北朝時代から室町時代の前半頃の作例に通ずる特徴をもっていると見て良いと思う。やや面長で頬が長く、切れ長の目をもった面相や、どっしりと肉厚で、しかし抑揚は乏しい、小山のような体型など見るにつけ、面相についてはその頃の仏像に、体型については仏像あるいは頂相の類に、通ずるものがあると感じられるのである。型作りの小像でありながら、作行きはなかなかしっかりとしたものを見せている。
 

写真29 法蔵院 地蔵菩薩坐像


 

写真30 個人蔵 地蔵菩薩坐像


 

写真30-2 個人蔵 地蔵菩薩坐像 側面


 

写真30-3 個人蔵 地蔵菩薩坐像 背面


 

写真30-4 個人蔵 地蔵菩薩坐像 像底


 
 そして、このような制作時期についての見解は、他地域の例を参照することで、補強することができる。この陶製地蔵菩薩坐像は、一般にはほとんど知られていないものの、実は広く北部九州一円に分布している。福岡県では、苅田町の青龍窟、同じく苅田町の南原西門田遺跡、太宰府市の金光寺跡、福岡市の下山門乙女田遺跡から発掘調査で見出されており、太宰府市の国分寺や崇福寺(そうふくじ)からも出土したと聞いたことがある。この中でとくに、青龍窟からは大量に見出されている。また大平村では、近くの田から掘り出されたと伝えるものを、大量に安置している堂宇があるし、吉富町の鈴熊寺境内や豊前市の求菩提山からも、かなりの数が見出されたことがあるという。豊前地方の個人宅に所蔵されている作例についても、いくつか情報を得ている。県外で言えば大分県大分市の、府内城下町遺跡から出土したことは記憶に新しい。これらを見渡すと、先に述べた胸飾りの有無に加え、背中に光背(こうはい)の衲(ほぞ)穴が有るものが見られたり、また袈裟に表された文字が異なるものが一例あるなど、細部に若干の異同はあるものの、像容はみな酷似しており、一連の作であることは間違いない。正式な発掘調査を経ていない作例についてはさておき、刊行されている発掘報告書においては概ね、共伴遺物と遺構から室町時代のものとされていて、先の作風から見た見解と矛盾していない。ただし、最も良好な表面の状態を持つものが大量に見出された、平尾台にある青龍窟においては、江戸時代以降の層から出土しているというのは注意されるが、やはり作風や他の出土例から江戸時代のものとは考え難いので、これについては窟内での伝世を考えるべきであろうか。なお、見ての通り、この陶製地蔵菩薩坐像の分布は、明らかに豊前地方を主としている。かつて大平村の堂宇に所在する作例について調査が行われた際に、当時別府大学におられた調査者の八尋和泉氏と増川千菜美氏は、袈裟前面垂下部の篆書体(てんしょたい)の文字が、「令一万象」と読める可能性を示唆されていたが、確かに実数一万躯には遠く及ばないにしろ、大量の像が見出されているのは事実である。いくら型作りの小像であるとはいえ、これはどの数を、しっかりとした作行きをもって造像するのは大きな事業であるが、南北朝時代から室町時代にかけての豊前地方には、それを実現する基盤が存在していたらしい。その基盤の所在や、それを構成する宗教的、経済的、政治的諸要素を明らかにすることは、今後の検討に委ねなければならないものの、これが明らかにされた暁には、豊前地方の当該期の歴史は、今まで知られていなかったかたちの充実を知らせてくれることになるだろう。豊前地方の中世を考えるに際し、この陶製地蔵菩薩坐像の存在は、決して小さなものではない。