行橋の室町時代の仏像については、紹介したい像がたくさん遺されている。金箔を細く切って文様を表す截金(きりかね)の多彩な技法を衣に見せ、凛々しく力強い顔立ちをした草野の福正寺(西山浄土宗)の本尊阿弥陀如来立像(写真31)、作風にも構造にも、当時の造像界の中心で活躍していた仏師によって造像されたことが看取される、今井の浄喜寺の本尊阿弥陀如来立像(写真32)、また地名の由来となった宝をその下に秘蔵しているとも、それ自体が金剛宝石であるとも言われる盤石の上に設けた壇上に安置されている、宝山の養徳寺(真宗木辺派)の観音菩薩立像(写真33)をはじめ、まだ重要な作例は少なからず存在している。ただこれら全ての紹介は、今回のところは到底成し得ないので、いずれ機を見て改めて紹介することができればと思う。ここではあと二躯だけ、基準的な作例を紹介しておくことにしたい。ここでいう基準的な作例とは、銘文(めいぶん)によって造像された年が判明する像のことである。そもそも、一般に仏像の年代については、銘文あるいは確かな記録によって、造られた時期が押さえられている作例を基準としつつ、いわばそれを物差しの目盛りのように考えて、対象となる仏像の作風や技法が、物差しのどの辺りに位置するかを考えることによって判定するものである。刻々と移り変わる作風や技法の流れを教えてくれる、貴重な存在であるこのような基準作はしかし、江戸時代以降はともかく、古いところでは希少な存在である。幸いにも見出された基準作の紹介は、これからの研究を進めてゆくために、積極的になされなければならない。そこで室町時代の結びを、二躯の基準的な作例の紹介によって、締め括(くく)ることにしたわけである。
紹介する作例は、大橋の正八幡宮に安置される神像と、道場寺の曼陀羅寺(西山浄土宗)に安置される本尊の阿弥陀如来坐像である。正八幡宮の神像(写真34)は、像高二六・六センチメートル、針葉樹材の寄木造で彫眼、肉身は漆箔で衣には彩色を施した、菩薩と同様の姿をした像である。八幡神は、僧形あるいは衣冠束帯の貴紳(きしん)の姿にあらわされることが多い中にあって、このような像容は珍しい。神が菩薩の姿にあらわされるのは、神像発生当初の古態を想起させ、銘文中に、貞観(じょうがん)二年(八六〇)に造像された像の由緒を継ぐものだと述べられることを併せ考えると、これは当初の神像の姿にならったものである可能性もある。像を見ると、この像の面長の顔、着衣の形態、衣文の構成は、南北朝時代の院派仏師達の作例に一脈通じるところがあるものの、彼らの作に見られる癖の強さはなく、室町時代の時代性と、一般に簡明な造形への志向をもつ神像であることを反映して、大らかさと森厳さをあわせもった、好ましい造形を見せている。構造については、根幹部前面は両肩先までを含み、頭体を通して一材より彫出し、根幹部背面は、後頭部を一材より彫出し、体部背面を一材より彫出している。内刳は施していない。膝前、両袖口、手先はそれぞれ別材で彫出して、根幹部に矧ぎ寄せている。手先を失っているのは惜しいが、それを除けば状態は良好で、剥落して薄らいでいるものの、彩色も当初のものらしい。なお銘文については、目につかない所に記されるのが普通である通り、この像の場合は、体幹部前面材の背側、つまり、体部背面材との矧ぎ面に整然と陰刻されている。少し長いが全文を記すと、「宮市八幡宮者依宇佐宮之託宣文室益/善為護国安民貞観二年秋八月所草/造之宗廟也故国内毎有事国司郡司/就而祈願之必蒙霊験矣然益善所安/置之大菩薩像積年漸多処々生損/所之旨別当素然出訴之仍為満宿願/以一子千代丸更令奉安之畢/天文癸丑中春八日 大願主/高倉城主/杉因幡守重昌敬白」(/は改行を示す)というものである。銘文の信頼性については検討の必要があるだろうが、少なくとも彫刻史の立場から言えば、この銘文は不自然なものではない。まず、像の作風は、この天文(てんぶん)二二年(一五五三)頃のものとして何ら問題はなく、また、長文の体内銘を陰刻して表すという、変わった造像銘の在り方にしても、隣の犀川町の生立八幡宮に所在する、応永元年(一三九四)に造像された僧形八幡神坐像(ぞうぎょうはちまんしんざぞう)を、先行する類例として挙げることができる。何らかの手が加えられている可能性は否定できないものの、内容については概ね信頼しうるものだと考える。
なお、冒頭に行橋の神仏を紹介する旨(むね)述べておきながら、神祇(じんぎ)信仰に関してはほとんど触れてこなかったし、実は今回紹介する神像は、この正八幡宮の神像一躯のみである。本当は、神仏と並び称される通り、日本の信仰文化の中で仏像同様に神像は大切であるため、同等の比率で紹介しておきたいところではあるのだが、仏像と違い神像は、神殿に秘されて直接礼拝することができない存在であるため、なかなか調査をすることが叶(かな)わないのである。正八幡宮の神像についても、この像が現在の御神体ではなく、神殿修繕のおりに、御神体床下の違い棚から発見された像であるために、調査をすることが叶ったのであった。この折り他にも、中世に遡る作例を含む、数体の神像が共に見出されている。信仰を害するようなことがあってはならないが、近年他県で進み始めているように、神像の調査をすることが叶う時が来たならば、行橋の信仰文化のまた新たな側面を、明らかにしていくことができるだろう。正八幡宮の神像は、そのような期待を抱かせてくれる存在でもある。
曼陀羅寺の阿弥陀如来坐像(写真35)は、像高五九・五センチメートルと、特別大きいわけではないものの、力強く堂々たる趣をもった像である。やや面長で、吊り気味の目と強く締まった口元を見せる厳しい顔、厚い胸の肉付きをもって幅も奥行きも大きい体など、頭体の幹部にはなかなかに迫力ある造形を見せている。作行きはこの時代としては優れたものである。なお、基本的な姿としては、左右の手ともに、親指と人差指の先をあわせて輪をつくる、阿弥陀如来に特徴的な手つきをし、左足を上にして結跏趺坐して、下半身には裾を、上半身には大衣を左肩から体に巻くように着けるなど、阿弥陀如来坐像通例の姿をしているのであるが、側面が強く張り出した頭髪の様子は、阿弥陀如来像のみならず、髪型が共通する如来像全体の中で見回しても、個性的な珍しい表現である。このような表現については、彫像よりもむしろ、中世以降の仏画の中に同様の特徴をもったものを見出すことができるなど、絵像との関連が窺えることは興味深い。構造については、後補の厚い漆箔のためによく分からない点がある。頭部は、目が彫眼であり、頭髪部の側面に小材を矧ぎ足して、張りを増していることの他は不明で、内刳の有無も分からない。内刳があるにしても、体部の内刳とは通じていない。体部については像底から観察することができ、体幹部が基本的に前後二材よりなり、これに、扇形に広がる裙の先までを含めて、大きく一材から彫出した膝前を矧ぎ寄せていることが分かる。体部には内刳を施し、膝前も底部から材を刳っている。そしてこれに、別材よりなる右腕、左の袖口、左手先、右腰脇などを矧ぎ寄せ、また左体側に薄く別材を矧ぎ足すなどしているものである。構造については、材が肉厚であることもあって、大層堅固な印象を与えるものとなっている。造像銘については、膝前の内刳面に墨書されている。全文を記すと、「永禄五年ミつのへいぬ/十一月廿三日/右旨趣者/天長地久/御願成就所也/如件/願主暁寿/仏師宗然」(/は改行を示す)というものである。永禄五年は一五六二年。年月日、目的、願主名、仏師名を完備した、短いが貴重な銘文である。この時代としては高い水準を見せる造形と併せ、室町時代の仏像の貴重な基準作として、注目すべき作例だと言える。
ここまで、室町時代の基準となる、神仏二躯の像について紹介してきたが、この二像は、天文二二年(一五五三)と永禄五年(一五六二)ということで、造像された時期が近いため、共通する気分を感じることはできるものの、具体的に細かく見ていくと、作風も技法もかなり異なっていることが明白である。このことについては、まず造像に当たった仏師の系譜が異なるということ、そして、表現の志向するところに違いがある神像と仏像であるということを、主たる理由として考えることができる。時代性は大枠として共有されながら、その枠の中は決して画一的なものではなく、それぞれが、それぞれの在り方をもって進んでいるのが実態だということであろう。近づいて細かく見ると、さまざまな流れが確認できるが、離れて大局的に見ると、それが一つの大きな流れになって見えていると言うこともできる。もちろんこれは、二像が実感させてくれる室町時代についてのみではなく、どの時代の様相についても同様に言えることである。