江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍に任じられて、江戸に幕府を開いた慶長八年(一六〇三)から、明治元年(一八六八)に至るまでとされる時代である。この江戸幕府は、本寺と末寺の序列を秩序立てて寺院社会を統制するための本末制度や、キリシタン対策に加え戸籍制度としての側面をもつ檀家(だんか)制度を整備するなど、仏教を国内支配の重要な手段とする仕組みを作り上げていく。それを受けて寺院社会は、統制の一方で保護を受けることになり、寺院の整備復興は大いに進められたし、檀家制度による仏教の国内隅々にまで至る浸透は、仏像を造像する基盤を大きく広げることになった。造像される仏の種類も、古来信仰されてきたものに、新たな信仰に由来するものを加え、この時代は誠に多彩なものがある。今、寺院を訪れて仏像を拝すると、その多くが江戸時代に造像された仏像であるのは、江戸時代の終わりから現在に至るまでが一四〇年弱と、まだ比較的時代が近いということのみが理由ではなく、江戸時代の仏教界の繁栄が、大きな背景になっているのだと言うことができる。そしてこの繁栄に由来する需要は、慶派や院派などの流れを汲む、伝統的な技法を伝える仏師たちはもちろんであるが、木工をこととする職人としての性格が強い、市井(しせい)の俗人仏師たちの盛んな活躍によって満たされた部分が大きい。
このような状況の中で、江戸時代の美意識を反映して造像された仏像については、一般に、まとまり良く小綺麗に整理された姿をもち、前代までに比べると小型の像が多くなることが指摘できる。ただ、ややもするとこの小綺麗さは、表面的に整えることにとどまるきらいがあるのは否定できない。構造についてみても、従来の寄木造が、木組みの工夫に加えて膠(にかわ)や漆の接着剤を用いて、堅固な構造を志向していたのに対し、江戸時代の仏像には、伝統的な技法によって造られたものだけでなく、部材をただ積み木のように重ねて膠で接着しただけのものもまま見られる。膠による接着は、環境の変化や時間の経過には弱く、やがて膠が接着力を失うと、わずかな衝撃で像が崩壊してしまうことになる。ここには、時代が新しくなるほどに窺える、仏像への尊敬の念の希薄化傾向が隠せない。多様になった仏像観と、多彩な需要、そして京都や奈良、江戸や大阪だけでなく、それぞれの土地に根付いた、さまざまな階層の仏師達の活躍とが相まって、江戸時代の造像界は明治維新に至るまで、賑(にぎ)やかに展開していったのであった。