江戸時代の仏像は、多く遺されていることに加え、銘文をもっている作例が大層多いため、江戸時代の造像界の様相は、具体的に明らかにしていくことが可能である。そしてこれを明らかにすることは、資料不足でなかなか具体的に考えることが難しい、古い時代の様相を明らかにすることにもつながっていく。近年では、関東や関西地方での、そのような研究の深化には目覚ましいものがある。しかし九州地方においては、佐田を姓とするいわゆる福岡仏師など、一部の存在については注目がなされながら、まだまだ本格的な研究は、準備段階にあると言える。市内の仏像の悉皆調査を経ていない行橋についても、同じくようやく端緒(たんちょ)についたばかりだと言ってよい。そこでここでは、この度調査することのできた江戸時代の仏像の中から、銘文をもつ基準的作例と、特色有る作例のうちのいくつかを紹介しておくことにする。
道場寺の正覚坊(真宗大谷派)の阿弥陀三尊像(写真36)は、中尊阿弥陀如来立像の台座にある墨書によって、「京仏ぬし」と名乗る九郎左衛門が、寛永二〇年(一六四三)に彩色したものだと分かる。像の作風から見て、これが修理に伴うものとは思われないので、造像自体がこの頃だと考えてよいだろう。像高は、阿弥陀如来立像が二六・四センチメートル、左右に随う脇侍の観音菩薩立像と勢至菩薩立像(せいしぼさつりゅうぞう)が一九・三センチメートル。やや赤味を帯びた重い針葉樹による一木造で、彫眼、肉身は漆箔で衣を彩色としている。小像といえど細かく材を寄せて造ることの多い江戸時代の仏像にあって、この三尊像が、中尊の阿弥陀如来立像では、両手先と両足先と面部のみ、左右に随う脇侍の観音菩薩立像と勢至菩薩立像では、髻と面部と両腕と両足先のみを別材とし、内刳も施さない無垢(むく)の構造をしているのは、少し変わっている。細やかな彫口や、材が堅く重い樹木であることと併せ、平安時代の所で紹介した檀像の流れを意識した作例だと見るべきかもしれない。しかしそうであってもこの像の作風は、まさしく江戸時代のものであり、小綺麗で端正に整った姿と、工芸品のような細緻(さいち)な彫口を見せる様子は、その典型を示すものだと言うことができる。なお構造について、この像の場合面部を別材とするのは、玉眼の嵌入以外に目的を考えにくいように思われるのであるが、少なくとも現状では先述の通り玉眼とは確認できない。
つぎは、応仁二年(一四六八)に朝鮮に使いを送った、海賊大将藤原邦吉が本拠とするなど、中世には海上を支配する水軍の重要拠点であった蓑島(みのしま)の、浄念寺(浄土宗)に安置されている、本尊の阿弥陀如来坐像(写真37)である。像高五二・七センチメートル、寄木造で玉眼を嵌入し、漆箔を施しているこの像は、像底に銘文をもっている。銘文は朱漆で「元禄二巳ノ七月十五日/施主/一峯智専建立之」(/は改行を示す)と記されている。修理に際して書き改めたものではないかと思われる節もあり、また仏像の造像に建立という語を使うのも珍しいように感じるものの、内容については不審というほどのことはない。何よりも像の作風が、元禄二年(一六八九)頃のものとして、誠にふさわしい様子を見せている。面貌や着衣の表現には、平安時代後期の円満整美な仏に一脈通じるところがあり、広く厚い胸の肉付きには鎌倉時代の仏像にどこか通じるところを感じさせながら、造形総体としては他のどの時代のものでもなく、技巧的で型通りに破綻無く整った、江戸時代の仏像の典型的な姿を見せている。後補のものを交えた漆箔により、詳しくは分からないものの、内刳を深く施していて、伝統的な寄木造だと看取される構造と併せ、当時名のある工房で腕を振るった仏師の手になるものだと考えられる。なお、江戸時代の仏像の一つの特徴として、とくに平安時代後期や鎌倉時代など、整った美しさをもつ仏像を生み出した時代を主とした、過去のさまざまな時代に学んで、それを器用に融和させつつ作風を形成しているように見えることが指摘されているが、これは浄念寺の阿弥陀如来坐像についても当てはまるように感じられる。
基準的作例のもう一つは、肖像彫刻を取り上げておく。稲童の真光院(西山浄土宗)に安置される西山(せいざん)上人坐像(写真38)である。西山上人とは、法然上人の高弟で、浄土宗西山義の祖である鎌倉時代前期の僧、証空(しょうくう)のこと。鎌倉時代に頂相彫刻に始められた、椅子の上に坐って椅子の前面に衣の下方を垂らす姿であるが、浄土宗の僧らしく胸前で数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)っている。桧材の寄木造で玉眼を嵌人した像である。銘文は、垂下する衣の裏面に金泥で記されるものと、椅子の背面に墨書されるものと二つが確認できるが、内容的にはほぼ同一であるので、像に記される方をあげておく。銘文は「豊前国仲津郡稲童村/真光院十六世三空達賢代/施主当村城戸悦次良直/同松原筒井武右衛門/天保十五甲辰冬奉彫刻/京都醒井通五條上ル町/両山御用御仏工所/川本右京康直」(/は改行を示す)というもの。造像年、住職名、施主、仏師名とその工房の所在まで記されるなど、情報量の多い銘文である。像は、大層状態が良く、左右腰脇の小材が亡失(ぼうしつ)し、椅子にぐらつきがある他は、天保(てんぽう)一五年(一八四四)に造像された当初の姿をそのまま留めている。坐高三二・二センチメートル、垂下した衣の下端から頭頂までが五一・三センチメートルと小柄で、良く整えられて美しく彩色された姿は、威厳よりも親しみやすさをもっている。江戸時代の肖像彫刻の持ち味があらわれた作例だと言える。
特色ある仏像としては二件を紹介しておこう。一つ目は、高来の天聖寺(曹洞宗)の釈迦如来坐像(写真39)である。この像は坐高四一・二センチメートル、桧材の寄木造で、玉眼を嵌入し、漆箔を施した像である。構造としては、頭部は前後二材よりなり、挿首とし、体幹部は前後二材で、両肩先は地着に至る縦材を寄せている。膝前は一材よりなる。両袖口上面は別材。法界定印(ほっかいじょういん)を結ぶ両手先は、左右を通して一材より彫出して、袖口に差し込む。体幹部材は深く内刳を施しており、像底からも上げ底状に刳ってゆきながら、棚状に材を彫りのこして底板のようにして、像内を密封する仕様としている。この、体幹部材の底部を、底板状に彫りのこすという仕様は、鎌倉時代に運慶周辺の仏師がしばしば用いたことが知られているものの、他派あるいは他の時代で用いているのは変わっている。とはいえ構造については総じて、伝統的な寄木造の範疇(はんちゅう)に収まるものだと言えるのに対し、作風については、かなり異質なものが感じられる。これは江戸時代の如来像の典型的な作例である、蓑島の浄念寺の阿弥陀如来坐像と見比べると分かりやすい。
頭部は頂部には毛髪がなく、太い鼻をもった面相には、一種の生々しさと癖の強さが感じられる。衣の着け方も随分と異なっていて、衣の縁は大きく波打ち、胸の下には、下半身に着けた裙の上端が覗いている。手が長く手指が長く、上半身が筒状で長い体型も独特である。このような姿は実は、中国の仏像に倣ったものである。江戸時代初頭、中国から隠元禅師(いんげんぜんじ)が来日し、臨済宗の一派である黄檗(おうばく)宗を日本に新たにもたらした。この黄檗宗は江戸時代の文化に大きな影響を与え、とくに黄檗僧の書に倣ったいわゆる唐様(からよう)の書などは、大いにもてはやされたことが知られている。そして、同時代の中国文化をそのまま移植したような黄檗宗は、自分たちの宗派にふさわしい仏は、やはり中国風の仏であるとして、同時代の中国の作風で造像した仏を寺に安置したのであるが、このような仏が、黄檗宗にとどまらず、他派の仏像にも影響を及ぼしたのである。とはいえ先に触れた書に比べ、また、古く唐や宋の仏が与えた影響に比べると、日本への影響は大きなものではなく、黄檗宗以外では、北部九州地方を中心に、主として禅宗寺院で採り入れられながらも、大きな潮流をなすには至らなかった。黄檗宗を介して中国の仏像にならったこの像に、物珍しさを感じるのはそのためである。ただし一見すると異風が感じられるとはいえ、構造が純日本的であるように、実はこう見えてこの釈迦如来坐像は作風も、中国のものに比べると、随分と日本風に優しく整ったものになっており、外来文物の受容の在り方を考える上で、興味深い様相を見せている。その高い技術的水準とあわせ、目を引く作例の一つである。
二件目は、下検地の個人の敷地にある阿弥陀堂で二躯(写真40)、元永北代の地蔵堂で一躯(写真41)、西谷の西光寺(西山浄土宗)で一躯(写真42)確認された、木切れに目鼻と衣文を刻んだかのような、風変わりな姿をした一連の小さな仏像である。手先を除き台座までを樟の一材から彫出したこれらの仏像は、像高が一七センチメートル程度、総高でも二三センチメートル程度の小さな如来形立像で、その姿も木切れとさして大差ないような、心得ある工人が彫ったとは到底思われない姿をしている。単体で存在していると、通常はなかなか調査対象にはしないような作例である。実のところこの度も、もとよりこの像を目当てに調査に行ったわけではなく、下検地に陶製地蔵菩薩坐像を調査に行った際に、横に二躯並んで存在していたことから、あるいは他にも広がりがあるかもしれないと感じ、またこの時、むかし水飢饉の時に造って祀ったものだと伝えられていると聞いたのが、少し気に懸かったことから、念のために記録を取っておいたものであった。その後、元永北代の地蔵堂で一躯、西谷の西光寺で一躯確認し、やはりどうやら京都平野に広がりをもっているらしいと確認できたものの、積極的な探索は行っていなかった。
そのような時、隣の勝山町で行われた、町内の仏像の悉皆調査において、国指定史跡の綾塚古墳の傍らにある、中黒田の集会所(通称女帝庵)で、同一人物によって造られたとしか思えない、酷似した作風をもった二躯の仏像が見出されたのである。この仏像は、かつて綾塚古墳の横に存在していた仏堂に祀られていたものである。一躯は如来形立像(写真43)、一躯は地蔵菩薩立像で、法量は前者が像高五四・〇センチメートル、総高六二・四センチメートル、後者が像高五二・五センチメートル、総高五九・五センチメートルと、行橋のものと比較すると随分大きさに開きはあるが、とくに像容を同じくする如来形立像との相似は著しい。そしてこれら二像には、背面に墨書銘があり、享保(きょうほう)四年(一七一九)三月に、女体山の浄蓮という人物によって、造像されたことがわかったのである。件の小像も恐らくは、同じ頃、この浄蓮という人物によって造像されたのであろう。なお、寺院の名称にしては、女体山とは風変わりな気がするが、これは綾塚古墳の被葬者が、姫だと伝承されてきたところに依るものであろう。さて享保年間と言えば、不順な天候が続き、とくに一七年は大飢饉で、京都平野も甚大な被害を受けたことが伝えられている。水飢饉に関わるものだという伝承とあわせ、小さな如来形立像は、このような暗い影のある時代背景を契機として造像された可能性もある。浄蓮が一体何躯造像したのか分からないが、調査をすればきっとかなりの数が確認できるだろう。これらの小さな如来形立像は、技術的には拙いものながら。一心に鑿(のみ)をふるった一人の僧の、真摯な祈りの結晶として、記憶しておきたい仏像である。