市内に所在する江戸時代の仏像の一部を調査した中から、さらにわずかな数の仏像しか紹介することができなかったが、ここで最後に、作例の紹介には及ばなかったものの、今回存在を確認することができた仏師たちについて、今後の研究の一助になればと思い、せめてその名前を列記しておくことにしたい。道場寺の曼陀羅寺の阿弥陀如来坐像を寛永一一年(一六三四)に彩色した、仏師和泉。西谷の西光寺の如来形坐像を天明五年(一七八五)に、修復したものと考えられる、仏師筑前飯塚宿庄野利兵衛・坂口喜兵衛。入覚の願光寺で安永八年(一七七九)に、仏像を修復したものと考えられる、入覚村の紬師某。宝山の養徳院の薬師如来坐像を文化六年(一八〇九)に再興した、仏師細工大橋ノ王稲荷屋の某。下津熊の大儀寺の如意輪観音坐像を天保一四年(一八四三)に再興した、仏師筑前州冷泉津博多住雪竹園喜兵衛。稲童の真光院の閻魔大王坐像を天保一四年に再作した、西吉三。道場寺の曼陀羅寺の閻魔大王坐像を江戸時代後半(真光院十二世潮空顕海の時)に再興した、仏師長州船木住稲田嘉兵衛。高来の天聖寺の釈迦如来坐像を、江戸時代に修復したものと考えられる、豊之後州仏師三浦主水。わずかな調査の中でもこのように、江戸時代の仏師の名前は、いくつも確認することができる。そしてここでは省略したものの、実際これらの銘文には、年号や仏師名の他にも、豊かな情報が含まれていて、寺と仏像を取り巻く環境に思いを巡らせる大きな手がかりを与えてくれる。行橋の歴史を考える際に仏像の銘文は、貴重な文字資料として活用に値する存在だと言える。悉皆調査を行って銘文を集成したならば、江戸時代の行橋や、行橋とさまざまな地域とのつながりについて、今は知られていない興味深いことが、いくつも明らかになっていくことだろう。