1 浄喜寺

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 浄喜寺は、祓川の最下流、今井の字守田に所在する、真宗大谷派の寺院である。ここ今井は、周防灘に浮かんでいた蓑島までを地続きにした、江戸時代末と昭和に行われた干拓によって、いまは少し海から離れているものの、中世以降しばし、海に面した港町として繁栄してきた地である。浄喜寺は、室町時代の今井津の繁栄の中で、眼前に浮かんだ蓑島を望む、海岸近くに開かれたのであった。寺を開いたのは、水軍の将として名を馳せたという村上良成で、良成は蓮如上人の直弟子となり、慶善の法名と、浄喜寺という寺号を授かったと伝えられている。草創期に関わる什物としては現在、明応四年(一四九五)九月二八日の年月日と、大谷本願寺釈実如(じつにょ)、願主慶善の名を裏書きに確認することができる、「浄喜寺」の寺号墨書(写真50)が遺されている。江戸時代の初め、浄喜寺の進む道を決定づけた第三世住職の良慶は、この慶善の孫である。良慶は武勇に優れ、織田信長と石山本願寺との間でおきた、いわゆる石山合戦をはじめとする諸戦において、本願寺一二世にも一時就任した教如(きょうにょ)のそばにあって、大いに活躍したことが知られている。教如は、父である本願寺第一一世の顕如(けんにょ)が信長と講話した後も、抗戦の態度を崩すことがなかった人物で、やがて豊臣秀吉によって、弟の准如(じゅんにょ)に十二世を譲って隠居させられたのであったが、屈せず積極的に布教活動を続けて、やがて徳川家康の全面的な支援を受けながら、新たに東本願寺をおこすことになった。これより、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺と、真宗大谷派の本山である東本願寺とが存在することになったのである。そしてこの時、良慶が教如に従ったことから、浄喜寺は東本願寺と直接密接に結びついた寺院になったのであった。以後の浄喜寺は、東本願寺の直末寺となり、九州地方における浄土真宗展開の重要拠点として、豊前一帯に大きな影響を及ぼした。江戸時代末においても浄喜寺は、配下、末寺、末庵約百ヵ寺を数えたといい、草創以来の活況の一端を知ることができる。現在でも浄喜寺の偉容は、京都平野で一際目を引く存在となっており、周防灘沿いを南北に延びる、国道一〇号線を走りながら東方に目を向けると、車窓から望まれる、文化一〇年(一八一三)に建てられた巨大な本堂の屋根は、周囲の家並みを圧してまるで小山のようである。この浄喜寺には、寺始まって以来の貴重な歴史資料が沢山伝えられているのであるが、この度は幸いにもその中から、造形遺品の範疇(はんちゅう)に含まれる仏像や絵画を主とし、加えて若干の文書類を調査することが叶った。そのうちの一つが、今回紹介する親鸞聖人絵伝である。

   

写真50 浄喜寺 寺号墨書


 

写真50-2 浄喜寺 寺号墨書 裏書