浄喜寺本は、絵画作品としての水準には、一際目を引くものがあるとはいえ、図様については細部はともかく、基本的に四幅対絵伝の通例と共通するものである。そのため浄喜寺本の場面を確認しておけば、一般の四幅対絵伝に描かれている場面について、全て理解することができるということになる。そこでここでは、親鸞聖人絵伝の内容を知るために、浄喜寺本に描かれている場面について見ておくことにしたい。一般に四幅対絵伝は、先に登場した康永本の伝絵にならい、出家学道(しゅっけがくどう)、吉水入室(よしみずにゅうしつ)、六角夢想(ろっかくむそう)、蓮位夢想(れんいむそう)、選択付属(せんじゃくふぞく)、信行両座(しんぎょうりょうざ)、信心諍論(しんじんじょうろん)、入西鑑察(にゅうさいかんさつ)または定禅(じょうぜん)夢想、師資遷謫(ししせんたく)、稲田興法(いなだこうぼう)、山伏済度(さいど)、箱根霊告(れいこく)、熊野霊告(れいこく)、洛陽遷化(らくようせんげ)、廟堂創立(びょうどうそうりつ)という名で通称される、一五の段より構成されており、図様の基本を通例と同じくする浄喜寺本も、もちろん同じ枠組みをもつものである。ただ浄喜寺本を見てみると、画中に銘札をもっており、この二四を数える銘札に、それぞれの場面について墨書されているので、ここではこの銘札にしたがって、描かれている場面を見ていくことにする。まずは場面を列記すると(( )内は属する段)、第一幅目は下から順に、上人青蓮院御坊御初参所(出家学道)、上人御出家所(出家学道)、初令謁黒谷上人給所(吉水入室)、於六角堂御夢所(六角夢想)、蓮位夢想所(蓮位夢想)の五場面。第二幅目は下から順に、選択集付属所(選択付属)、空上人真影令申預給所(選択付属)、可被分信行二座由被申所(信行両座)、信行二座分別所(信行両座)、両上人信心同異沙汰所(信心諍論)、入西坊可奉図上人真影由被申所(入西鑑察または定禅夢想)、定禅法橋奉図鸞御影所(入西鑑察または定禅夢想)の七場面。第三幅目は下から順に、内裏九卿詮議所(師資遷謫)、黒谷上人配所御出所(師資遷謫)、鸞上人配所御出所(師資遷謫)、常陸国稲田御坊(稲田興法)、自越後国常陸国御越所(稲田興法)、奉謁明法房上人所(山伏済度)の五場面。第四幅は下から順に、箱根山往及所(箱根霊告)、平太郎可熊野参詣由尋申所(熊野霊告)、熊野證誠殿(熊野霊告)、上人御病床(洛陽遷化)、於延仁寺御荼毘所(洛陽遷化)、大谷御影堂(廟堂創立)の六場面。ちなみに親鸞上人絵伝はこのように、下から上へと場面が積み重なるように進んでいくのであるが、これは、絵巻物の伝絵から抜き出した横長の絵を、縦に積み重ねてゆくことによって、絵伝の縦長の画面を構成したからである。それでは以下、二四場面のそれぞれについて、主として御伝鈔に依りながら、簡略に説明を加えておく。
上人青蓮院御坊御初参所(写真52)
承安(じょうあん)三年(一一七三)に、朝廷に仕えた日野有範(ありのり)の子として生まれた親鸞が、数え年九歳の春、出家するために、叔父の日野範綱(のりつな)に連れられて、のちに四度も天台座主(ざす)をつとめた慈円のもとを訪れたところ。室内の童子が親鸞。
上人御出家所(写真53)
すでに夜に入り、ゆらめく燈明の炎のもとで、慈円と叔父が見守る中、剃髪(ていはつ)し僧となるところ。親鸞は出家後しばし範宴少納言公(はんねんしょうなごんのきみ)と号し、比叡山で天台宗の修学に励んで、その教義に精通するようになった。
初令謁黒谷上人給所(写真54)
建仁元年(一二〇一)春の頃、二九歳になっていた親鸞が、浄土宗の宗祖で専修(せんじゅ)念仏を説く、法然のもとを訪れたところ。室内の黒衣の僧が法然、向き合う白衣の僧が親鸞。こののち親鸞は、終生法然を師と慕うことになった。
於六角堂御夢所(写真55)
建仁三年(一二〇三)四月五日、六角堂に籠もっていた親鸞の夢に、白い袈裟(けさ)をつけた僧形(そうぎょう)の救世(くせ)観音があらわれ、妻帯(さいたい)についてのお告げを下されたところ。親鸞が、東方の高山に出現した無数の人々に、このお告げを説き終わったら目が覚めた。
蓮位夢想所(写真56)
建長八年(一二五六)二月九日、親鸞の弟子である蓮位(れんい)の夢に、聖徳太子があらわれ、親鸞を阿弥陀如来として礼拝したところ。向き合う親鸞と聖徳太子の向こうに、蓮位が眠っている。前場面との夢を介しての繋がりで、挿入された場面。
選択集付属所(写真57)
元久二年(一二〇五)、法然より、主著の『選択(せんじゃく)本願念仏集』の書写を許され、貸し与えられているところ。書物を差し出す法然と、親鸞とが、室内で向かい合っている。
空上人真影令申預給所(写真58)
空上人、つまり法然房源空の肖像画に、法然自身から讃文(さんぶん)を頂いているところ。室内で筆をとっているのが法然、向き合う僧が親鸞。『選択本願念仏集』の書写と、法然の肖像画の拝受は、親鸞にとって大きな喜びであった。
可被分信行二座由被申所(写真59)
法然に、集会で、信不退(しんふたい)と行不退(ぎょうふたい)の二座に分かれて坐ることを提案しているところ。信不退とは、一心に阿弥陀如来を信じることで、極楽往生が決定するという立場、行不退とは、念仏の行を励むことで、極楽往生が決定するという立場。
信行二座分別所(写真60)
親鸞の提案を聞きながら、多くの門弟が態度を明らかにしない中、聖覚(せいかく)と信空(しんくう)が信の座につき、遅れてきた法力(ほうりき)(熊谷直実入道(なおざねにゅうどう))も信の座についた。そして親鸞が信につくと、しばらく間をおいて、法然も信の座についたというところ。
両上人信心同異沙汰所(写真61)
親鸞が、自分の信心と法然の信心は、ともに阿弥陀如来から授かったもので、等しく同じであると言ったのを、正信房(しょうしんぼう)、勢観房(せいかんぼう)、念仏房(ねんぶつぼう)ら多くの弟子たちが聞きとがめて非難したが、法然は親鸞の見解を支持して、皆を諭したというところ。
入西坊可奉図上人真影由被申所(写真62)
弟子の入酉房(にゅうさいぼう)が、日頃から、親鸞の肖像画を描いておきたいという考えをもっていたのを察して、七条あたりに住む定禅(じょうぜん)という絵師に描かせてはどうかと、親鸞が入酉房に話しているところ。
定禅法橋奉図鸞御影所(写真63)
招かれて直ちにやってきた定禅は、親鸞を拝するや、昨夜の夢に阿弥陀如来の化身(けしん)としてあらわれた、貴い僧だと驚き喜ぶ。夢の中では、定禅は顔だけを描けばよいと言われていたので、夢のとおりに、親鸞の面貌を写しとっているところ。
内裏九卿詮議所(写真64)
承元元年(一二〇七)、比叡山や南都(なんと)(奈良)の学僧たちが、法然の説く新しい教えの非を訴えたため、内裏(だいり)で公卿(くぎょう)達が詮議(せんぎ)をしているところ。この結果、法然門下からは、還俗(げんぞく)させられたり、死罪や流罪になる者が出ることになった。
黒谷上人配所御出所(写真65)
法然は流罪となり、藤井元彦(ふじいのもとひこ)という名をつけられて、土佐に流されることになった。屋内から法然が姿をあらわし、朝廷から派遣された護送役に監視されながら、輿(こし)に乗り込み、土佐へと向けて旅立とうとするところ。
鸞上人配所御出所(写真66)
親鸞も流罪となり、藤井善信(よしざね)という名をつけられて、越後に流されることになった。親鸞が輿に乗り込んで、まさに配所へと出発したところ。親鸞が赦免(しゃめん)されたのは、建暦(けんりゃく)元年(一二一一)一一月一七日のことであった。
自越後国常陸国御越所(写真67)
銘札は、一つ上の山中の景に付けられているが、本来はこの水辺の景に付けられるべき銘札である。許された親鸞が、常陸へと向かうところ。親鸞一行の背後では、塩をつくっているのが見え、水辺は海辺であるらしい。
常陸国稲田御坊(写真68)
親鸞は東国の常陸に至ると、笠間郡稲田郷に庵を結んだ。ひっそり暮らしていたのに、やがてたくさんの人が、教えを聞きに来るようになったというところ。親鸞は、六角堂で見た東方布教に縁のある夢の通りになったと、周囲に話をした。
奉謁明法房上人所(写真69)
山伏が親鸞に敵意をもって、いつも通る板敷山で危害を加えようと待ちかまえていたが、行き違いにばかりなるので、庵を訪ねて会ってみたら、たちまちに敵意が失せ、弟子になって、明法房(みょうほうぼう)という名を授けられたというところ。
箱根山往及所(写真70)
親鸞が京都に帰ろうとして、夜中に箱根にさしかかり、一軒の家に立ち寄ったところ。出てきた老人は、夢か現かいま箱根権現があらわれて、尊敬している人物が来るので、もてなすように命ぜられたと言い、ご馳走をしてくれた。
平太郎可熊野参詣由尋申所(写真71)
常陸で親鸞の教えをうけた平太郎が、京都まで訪ねてきて、領主の命で熊野詣に行かねばならなくなったが、参詣してもよいものか尋ねているところ。これに対し親鸞は、参詣して構わないことと、門徒としての参詣の心構えを教えた。
熊野證誠殿(写真72)
夢で、本宮の證誠殿(しょうじょうでん)中に、熊野権現と親鸞が坐っているところ。教えの通り、精進潔斎もせず熊野に着いた平太郎の夢に、権現が現れて叱るが、親鸞が現れて自分の教えに依ることを述べると、権現は親鸞に敬礼しそれ以上何も言わなかった。
上人御病床(写真73)
弘長二年(一二六二)一一月の下旬に、親鸞は体調をくずし、それからは、仏恩に感謝しつつ、絶えず念仏を唱え続けていた。弘長二年一一月二八日の正午頃、ついに念仏の声が絶え、親鸞が九〇年の生涯を静かに閉じたところ。
於延仁寺御荼毘所(写真74)
市中にあった住まいから、はるばる賀茂川の東の道を通って、京都東山の西の麓、鳥部野(とりべの)までいき、その南側にあった、延仁寺で火葬をしているところ。遺骨は、鳥部野の北側の、大谷の地に埋葬した。
大谷御影堂(写真75)
新たに建立された廟堂(びょうどう)と、その中に親鸞の像が安置されているところ。文永九年(一二七二)の冬に、大谷に埋葬した遺骨を改葬して、新たに廟堂を建立することになった。廟堂は、同じ東山の西方にある、吉水の北あたりに建立された。