農村社会

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 明治維新以降、第二次世界大戦までの行橋がおおよそどのような町であったのかを見ておこう。近代の行橋は一つの町と八つの村から構成されていた。行橋の名は明治二二年(一八八九)の町村合併で、長峡川に向き合う行事・大橋・宮市の三つの村が合併した際、行事と大橋から一字ずつとって生まれた。第二次世界大戦後、行橋町と合併して行橋市となる椿市、延永、仲津、今元、今川、稗田、泉、蓑島の村々も、同じ時に誕生した。
 明治一一年(一八七八)の行橋市域の人口は二万二五五七人であった。その内、四五六二人が古くからこの地域の商業の中心地であった行事と大橋に集中していた。行橋(祓郷村を除く)の人口は緩やかに増加し、大正五年(一九一六)には二万八〇〇〇人を超えた。同年に国鉄の行橋工場が閉鎖されたこともあって一時人口は減少したものの、昭和一〇年(一九三五)には三万一五〇〇人に達している(表1参照)。
 
表1 行橋の人口の推移(単位:人)
町村大正5年大正9年昭和10年
行橋7,9577,25611,299
蓑島1,5041,5911,531
今元3,9473,5633,781
仲津3,3173,2073,762
2,2892,1812,625
今川2,5812,0042,235
稗田2,2412,1042,173
延永2,4942,0082,313
椿市2,2951,8081,852
合計28,62525,72231,571
出典:『福岡県統計書』

 この行橋の人々はどのような職業に従事していたであろうか。表2に示した昭和一〇年の統計によってこの点をうかがってみよう。これによれば、行橋全体では農業が四五%を占め、次いで商業、工業、公務自由業、交通業となっている。昭和一〇年になっても農業が最大の業種であり、基本的には行橋は農業社会であったと言っていいが、行橋町では商業が三一%、工業が一九%に対し、農業は一五%を占めるに過ぎない。公務自由業、交通業を合わせ、人口の大多数が非農業に従事している町であった。行橋町を除くと、他の諸村は人口の大部分が農業や漁業に従事する人々から成り立っていた。瀬戸内海に面する蓑島村や今元村、仲津村で商業者が比較的多いのは、水揚げされた魚介類を売る人々(行商)が多かったためであろうと考えられる。行橋町は豊前地域の行政、商工業の中心地であったが、行橋町の商工業はこれら農村を市場として成り立っていたと言っていい。
 
表2 昭和10年における行橋市域の職業別人口(町村別)(単位:人、%)
町村農業 水産業 工業 商業 交通業 公務自由業 家事使用人 その他無業合計
比率比率比率比率比率比率比率
行橋町1,808151502,308193,740311,320111,51312100155981712,180
蓑島村70461533945555302531495525171731,851
今元村1,59840642161674393101634301816443821934,003
仲津村3,0726558112189451911732143349126764,728
泉村1,78662 286101234115427510 210692,864
今川村1,74269 1697243101797803321 702,515
稗田村1,85674 19281747111410544021162,495
延永村1,59956 2701019071555279101094197362,835
椿市村1,48380 704573181106610135641,846
祓郷村2,377683111554375111956293831115213,493
合計17,391453103,900106,369162,58273,190856011,5061,42538,810
出典:『福岡県統計書』