その農村を見ると、農村には地主・小作関係が広範に展開していた。すなわち一方には多くの土地を集積して、自らはごく一部を経営するか、あるいはまったく経営しないでその土地を小作農に貸し付ける地主がおり、もう一方には農地を所有しないか、わずかしか所有しないで農地を地主から借りる農民(小作、自小作農)がいた。行橋では小作地率が高く、四〇%を超える耕地が小作地であった。農民の内、自作農は四人に一人に過ぎなかった。明治時代、小作料は極めて高率であり、収穫高の六割強に達していた。小作料を払うと農民にはいかほども残らず、副業や出稼ぎをして生活を支えなければならなかった。幸い行橋地域は北九州や石炭業で活況を呈していた筑豊に隣接していたので、これらの地域に出稼ぎに出る人も多かったし、これらの地域の発展につれて脱農化していく人々も徐々に増えていった。
こうした地主・小作関係の下で展開された農業は主穀生産が中心であった。この時期、肥料の多投と激しい労働、そして品種改良によって土地生産性は著しく上昇している。行橋で生産された米は豊前米として大阪で高い評価を受けた。明治末期以降、北九州で工業化が進展するとともに、主穀生産を中心としながらも次第にそ菜や果実生産が増大した。なかでも今元村の里芋、西瓜、あるいは新田原の梨や桃はブランドに成長した。また、酪農業も芽生え始めた。しかし、こうした多様化した農業も日中戦争、太平洋戦争期の統制のために再び主穀生産を余儀なくされた。