明治維新以降、国民は自由民権運動などによって、制限されたものであったけれども、国会を通じて国政に参加する権利を獲得した。また、県や郡、市町村には「自治」が与えられ、地方議会が設けられた。行橋地域の町村でも町村議員が選ばれ、町村長が選出された。しかし、この「自治」は極めて制限されたものであった。町村会の選挙権者はその町村で直接国税を納める二五歳以上の男子に限定されていたのである。直接国税は主として土地の所有者に課税される地租か商工業に課税される営業税であったから、土地を持たない小作や零細商工業者には選挙権がなかった。逆にその町村に住んでいなくても、その町村に土地を有していて三円以上の地租を払っていれば、選挙権があった。しかも町村では二級選挙制度が採られていて、その町村の直接国税半分までを納める高額納税者を一級選挙人、残りを二級選挙人とし、それぞれ半数の議員を選ぶことができたのである。その上、一級選挙は二級選挙が終わってから実施されることになっていた。普通選挙制度が実施されるまでの地方自治制度は、地主や大規模商工業者に極めて有利にできており、有産者自治、資産家自治だった。
行橋地域町村の資産家の多くは地主であった。彼らは町村の政治や郡政に加わる一方、地域の企業活動や種々の文化活動の担い手となり、地域の名望家として重きをなした。その代表として柏木勘八郎父子を挙げることができる。彼らは行橋町議員や郡会議員を務める傍ら、豊州鉄道や宇島鉄道、行橋電灯など地域の企業活動に中心的な役割を担っていた。
彼らのこうした名望家としての活動を経済的に支えていたのは数十町歩に及ぶ小作料収入であった。しかし、大正期、労働運動や農民運動の発展とともにその小作料をめぐって農村は次第に激しい階級対立を抱えるようになった。名望家秩序が崩れていったのである。