農民運動を中心とする社会運動が展開された一九二〇年代以降、北九州では都市化が進み、衣食住の洋風化か進んでいた。行橋でも駅前が市街地として開け、飲食店が軒を並べた。駅前通りを中心にカフェーが次々に営業し、享楽的な雰囲気が漂っていたという。
行橋の人々に大都市の風俗や様相を伝え、大きな影響を与えた大衆文化は活動写真(映画)であった。活動写真は昭和前期の行橋の人々にとって、都会の息吹を伝える情報源であるとともに、最大の楽しみの一つであった。行橋で活動写真が上映されるようになるのは明治期からであったが、まだ専門の活動写真館はなく、例えば、明治四三には一〇回、一四日間上映されているに過ぎない。明治の人々の娯楽は何よりも演劇であった。明治四三年には行事警察署管内で営業・非営業合わせ一七四日も芝居の公演があったとされている。明治末期から大正半ば頃にかけて、心中など世俗の出来事を面白く節回しをつけて語る「祭文(さいもん)」も行橋で盛んに行われた。昭和期に入ると、旭館や富士館といった活動写真館ができ、観劇とともに、多くの人々が映画を堪能した。