行橋の文化人

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 この時代には大衆文化だけでなく、出版文化も行橋に及んできた。昭和五年には、月三、四回程度であったが、「行橋新聞」(大正九年九月創刊、月四回)、「北九州大観」(大正一二年四月創刊、月三回)、「京都新聞」(大正一三年六月創刊、月三回)の三紙が発行されていたほか、三種の雑誌(『教壇』、『延永時事報』、『隣情』)が行橋を拠点にして発行されている。このような新聞、雑誌がどの程度普及したのかを知ることはできないけれども、少なくとも経営的に成り立つだけの読者層を確保していたに違いない。
 近代の行橋やその近隣地域は多様な文学者、文化人や社会運動家を生み出した。代表的文学者としては末松謙澄、葉山喜樹、鶴田知也、竹下しづの女、大石千代子を、社会運動家としては堺利彦、田原春次、吉川兼光をあげることができる。末松は政治家として名高いが、『防長回転史』などの歴史書の他、紫式部の『源氏物語』を初めて英訳したり、演劇改良に尽力して、文化の分野でも大きな足跡を残した。葉山嘉樹は豊津の出身で、日本のプロレタリア文学の記念碑的作品である『海に生くる人々』、『淫売婦』などの著者である。鶴田も豊津の出身であり、『コシャマイン記』で第三回芥川賞を受賞している。その実弟の福田新生も画家として活躍し、日展の審査員を務めた。行橋の中川出身の竹下しづの女は、久保より江、杉田久女とともに女流黄金時代を築いた俳人である。行橋の今井に嫁いだ大石千代子は、鶴田らの始めた文芸誌『村の我等』に参加し、『ベンゲット移民』など海外の日本人の姿を描いて注目された。
 堺利彦はわが国社会主義運動の指導者であった。田原春次は京築地区の農民運動や無産運動を、その弟の吉川兼光は水平運動を推進し、両人とも戦後は社会党の政治家として活躍した。
 満鉄総裁、枢密顧問官を歴任した安広伴一郎(行橋町大橋)や革新官僚として戦時統制体制の樹立に大きな役割を果たした奥村喜和男(今川村天生田)など国政で活躍した人々も輩出している。