以上のような人々を生み出したのは京築の風土と教育であった。明治前期、私塾の名門として多くの人材を世に送り出したのが村上仏山の「水哉園(すいさいえん)」である。同園には京築にとどまらず西日本各地から入門者が後を絶たなかったが、公教育の整備とともに明治一七年に閉校した。新たな時代の教育の象徴となったのは、外国語教育や洋数学教育を取り入れた大橋洋学校である。同校は豊津の藩校・育徳館の分校として大橋に設立されたが、ほどなくして本校に統合された。本校の育徳館でも、外国語教育を取り入れた質の高い教育が実施され、福岡県最初の公立中学校として幾多の人材を生み出した。京都農学校も京築地域の農業の担い手を育て、京都高等女学校は豊前の女子教育の中心として大きな役割を果たした。
近代の義務教育は世界にまれに見る規律性の高い、勤勉な国民を作り出したが、支配に極めて従順な国民にもした。対外膨張政策が展開される中で、教育は次第に軍国主義的様相を帯び、日中戦争期以降ともなると、軍国少年が次々に育っていった。