旧幕府勢力を打ち破って政権を掌握した維新政府は、政権を安定させるために、早急に中央集権体制を築いていかなければならなかった。そのために、明治二年(一八六九)、諸藩主の願出を聴き入れるというかたちで、諸藩主に領地・人民を朝廷に返上(版籍奉還)させ、彼らを藩知事に任命して藩政改革を実施させた。次いで明治四年に、薩長の武力を背景に廃藩置県を断行した。藩を廃して県を置くというこの措置によって、全国に三府三〇二県が成立した。これら府県に対し、免職された藩知事(旧藩主)に替わって、政府任命の県知事が派遣された。同年一一月には、三〇二県は七二県に統合され、また職制の変更によって県知事が県令と改称された。
廃藩置県当時、現在の福岡県域には、福岡藩(藩知事・黒田長知(ながとも)-以下同様)、秋月藩(黒田長徳(ながのり))、久留米藩(有馬頼咸(よりしげ))、柳川藩(立花鑑寛(あきとも))、三池藩(立花種恭(たねあき))、豊津藩(小笠原忠忱(ただのぶ))、千束藩(小笠原貞正(さだまさ))の七藩が分立していた。廃藩置県とともに七県が設置されたが、同年一一月には筑前の秋月県は福岡県に統合され、筑後の久留米・柳川・三池の三県は統合されて三潴県(県庁・久留米、支庁・柳川)となった。豊前では中津県(現大分県)と豊津県、千束県の統合によって小倉県が設置され、県庁は小倉に置かれた。
さらに明治九年四月、小倉県は福岡県に合併され、次いで同年八月には、旧小倉県に属していた下毛・宇佐の二郡が大分県に組み入れられた。また、同月三潴県が福岡県に合併されて、現在の福岡県域が確定した。