万国に対峙する強力な中央集権国家の建設を目指していた政府にとって、廃藩置県後の最大の課題の一つは、税制改革の実施であった。旧来の年貢は幕府や藩によって負担率が異なり、不公平であったから、中央政府である明治政府は早急に全国一律の税制を実施しなければならなかったし、近代的な予算制度を確立するためにも、米で納めるのを改め金納化しなければならなかった。さらに、「富国強兵」を実現していくためには、財政基盤を安定させなければならなかった。
こうした種々の要求に応えるために実施されたのが地租改正という税制改革であった。その内容は土地所有者に地価(法定地価)の三%を課税し、貨幣で納税させるというものであった。この地租改正は明治政府にとって一大難事業であった。まず、耕地などの土地がいくらあり、誰の土地かを確定しなければならなかったし(地押丈量)、さらに、地価を算定するためには反当り収穫量(反収)を確定しなければならなかったからである。
この改正作業は数年にわたって行われ、その完了年度は府県によって大きく異なっていた。行橋地域を含む小倉県の地租改正作業は明治六年に着手され、明治八年に完了した。山口県や宮城県、浜田県などとともに、政府の統一的方針の樹立前(明治八年七月)に完了した県であった。