小倉県の改正作業を見てみよう。小倉県では農民から耕地の減少などの申請が相次いだため、県の指導の下にいち早く区戸長や地主総代人が中心となって地押しがなされた。これを、官吏が一郡中の数十カ所について点検した後、地主には地券が交付された。この地押し丈量は明治六年の春には三分の二が済み、翌年春にはすべてが完了した。新たな丈量によって旧藩時代に比べると小倉県の反別は二〇六七町歩増大した。
ここまでは順調に進んだが、地価を定める基となる反当たり収穫量を定める段階で、農民と県は鋭く対立することとなった。当初、県は政府の方針に従って、地価を定めるに当たっては、農民の申し立てによって耕地間の地位の差などを定め、一筆ごとの収穫量(それに基づいて地価)を求め、それを村全体に積み上げ、さらに各村の数値を基本に郡、県全体の地価を定めるという方式をとった。こうした方式によって算定された小倉県の田の平均反当たり収量は米一石二斗九升六合(それに基づく地価は四四円三三銭)となった。しかし、これで地租を算出すると、地租は政府の見込みよりも大きく下回ることになった。このため、政府はこの改正を認めず、一石五斗以上の収穫があるものとするよう求めた。政府から派遣された租税寮の官吏は権令の小幡高政などとともに、この目的を達するため「百方説諭」したが、「僅カニ五分通リ増加」したに過ぎなかった。結局、県を挙げての度重なる説得によって、農民に一石五斗七合一勺の反収(この地価五一円三銭七厘)が押し付けられた。一反当たり七円ほど地価が引き上げられたわけだから、この押し付けによって、小倉県の農民は当初に比べると、一反につき二一銭多く地租を負担することになったわけである。
政府が当初の方針を翻したのは、政府財政収入を安定させるために、ほぼ旧貢租並みの税収を確保することを方針としていたからであった。この旧貢租額を維持するために、上から政府が各県に予定地租を割り振り、県はそれを各郡に配分したのである。こうした押し付けの結果、政府は安定した財政収入を得ることができたが、農民は高額の地租を負担することになった。しかもこの地租は金納しなければならなかったから、農民は収穫した米を自ら売却して貨幣を手に入れなければならなかった。純農村に住む農民にとってその負担も大きかった。また、この米穀販売を基点にして、農民は急速に貨幣経済に巻き込まれていくことになった。