小倉県では、明治五年に旧来の手永が廃され一〇三の区が設けられた。『福岡県史資料叢書』によれば、当時大小区の区別はなく、区だけが定められたとされている(しかし、『詳説福岡県議会史』によれば、同年に九大区、一〇三小区が定められたとされており、この点は定かではない)。翌明治六年に割替えが行われ、この時点で九大区一〇三小区となっている。現行橋市域が属する京都郡と仲津郡は、それぞれ第三大区と第四大区に区分され、第三大区は九小区、第四大区は一一小区に分けられた。
明治八年七月には再び小区の組み替えを行って、第三大区は四小区に、第四大区は五小区に改められた。明治八年時点の行橋市域における各村の区分ならびに調所、扱所の設置場所および区長、戸長、副戸長をあげると、表1のようになる。
表1 明治8年7月の行橋地域の大区小区と戸長・副戸長 | |||||
大区 | 小区 | 村名 | 小区扱所 | 戸長、副戸長 | 族籍など |
二小区 | 行事、草野、下津熊、中津熊、上津熊、長音寺、吉国、長木、二塚、延永、下崎、長尾、(鋤崎、黒添、法正寺、谷、山口) | 行事村 | 伊藤慶英 | ||
第三大区 | 飯塚三郎 | ||||
調所 大橋村 | 三小区 | 入覚、高来、福丸、須磨園、徳永、常松、(矢山、岩熊、池田、浦河内、宮原、長川、箕田、上田、上黒田、中黒田、下黒田) | 下黒田村 | 花見仲六 | 旧小倉藩士 |
区長山本重暉 | 村上丹蔵 | ||||
四小区 | 津積、西谷、大谷、上稗田、下稗田、前田、中川、上検地、下検地、(平尾、下久保、中久保、図師、御手水、上久保、飛松、新町、菩提、下田、上野) | 上稗田村 | 布施源太郎 | ||
福井半三郎 | 元郡勘定庄屋 | ||||
一小区 | 大橋、宮市、大野井、宝山、流末、寺畔、福富、福原、長江、崎野、小犬丸、竹田、平島、羽根木、金屋 | 大橋村 | 高橋永種 | ||
第四大区 | 奥清三郎 | ||||
調所 大橋村 | 二小区 | 津留、真菰、今井、馬場、道場寺、蓑島、稲童、松原、袋迫、高瀬、辻垣、馬場、元永、沓尾、(徳永) | 真菰村 | 加来正頤 | 旧小倉藩士 |
区長山本重暉 | 有松二平 | ||||
三小区 | 矢留、天生田、柳井田、竹並、草場、(上豊津、下豊津、錦町、寿町、彦徳、惣社、国作、田中、有久、下原、呰見、国分、上坂、徳政、綾野) | 下豊津村 | 小林厚祚 | ||
富村圭三 | |||||
出典:『京都郡誌』、『福岡県史資料』第四輯 | |||||
備考:戸長、副戸長名は明治11年2月時点のもので、上段が戸長名、下段副戸長名。( )内は現行橋市域ではない村名 |
大区小区制時代の官選の戸長がどのような人々であったのか判然としないが、旧来の庄屋、大庄屋層でこの職についた者は明治一一年時点では確認できないこと、少なくとも二名が士族であることから、旧小倉藩士層がなったものと推定できる。一方、副戸長は旧庄屋などの一部も加わっているが、有力者層の名前をほとんど見出すことができない。
さて、この小区は旧来の手永とほぼ同じ区分となっている。すなわち、第三大区二小区は旧延永手永であり、三小区、四小区はそれぞれ旧黒田手永、旧久保手永であった。第四大区の区域は一~三小区がかなり旧手永と異なっているが、それでも二小区、三小区は元永手永、国作手永を軸に区割りされている。これは旧習を断ち切って新政府の統治を末端にまで浸透させようと人為的に線引きしてみたものの、生活共同体としての村や旧来の支配の組織を無視できなかったということを示していると言っていい。