大区小区制

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 このように、戸長は本来戸籍事務のみを取り扱う官選の吏員であったが、政府はこの戸長に国家行政事務を取り扱わせるために、明治五年に大区小区制を設けた。この制度は町村、郡の旧来の区画、名主・庄屋などの旧来の組織などを廃し、府県のもとに大区を設け、大区の下に小区を設置して、官選の区長・戸長に国家行政を遂行させる制度であった。大区の事務所は調所、小区の事務所は扱所と称された。戸籍の整備、租税の徴収、小学校の設置と就学勧奨、徴兵調査、布達の徹底などが区長・戸長の主な職務である。旧幕藩体制の村役人は、封建領主権力の村落支配を担うと同時に、村の代表でもあった。しかし、区長・戸長は政府の新政策の忠実な官吏であるに過ぎなかった。また大区小区制のもとでは、旧来の村の寄合も否定された。
 小倉県では、明治五年に旧来の手永が廃され一〇三の区が設けられた。『福岡県史資料叢書』によれば、当時大小区の区別はなく、区だけが定められたとされている(しかし、『詳説福岡県議会史』によれば、同年に九大区、一〇三小区が定められたとされており、この点は定かではない)。翌明治六年に割替えが行われ、この時点で九大区一〇三小区となっている。現行橋市域が属する京都郡と仲津郡は、それぞれ第三大区と第四大区に区分され、第三大区は九小区、第四大区は一一小区に分けられた。
 明治八年七月には再び小区の組み替えを行って、第三大区は四小区に、第四大区は五小区に改められた。明治八年時点の行橋市域における各村の区分ならびに調所、扱所の設置場所および区長、戸長、副戸長をあげると、表1のようになる。
 
表1 明治8年7月の行橋地域の大区小区と戸長・副戸長
大区小区村名小区扱所戸長、副戸長族籍など
 二小区行事、草野、下津熊、中津熊、上津熊、長音寺、吉国、長木、二塚、延永、下崎、長尾、(鋤崎、黒添、法正寺、谷、山口)行事村伊藤慶英 
第三大区飯塚三郎 
調所 大橋村三小区入覚、高来、福丸、須磨園、徳永、常松、(矢山、岩熊、池田、浦河内、宮原、長川、箕田、上田、上黒田、中黒田、下黒田)下黒田村花見仲六旧小倉藩士
区長山本重暉村上丹蔵 
 四小区津積、西谷、大谷、上稗田、下稗田、前田、中川、上検地、下検地、(平尾、下久保、中久保、図師、御手水、上久保、飛松、新町、菩提、下田、上野)上稗田村布施源太郎 
 福井半三郎元郡勘定庄屋
 一小区大橋、宮市、大野井、宝山、流末、寺畔、福富、福原、長江、崎野、小犬丸、竹田、平島、羽根木、金屋大橋村高橋永種 
第四大区奥清三郎 
調所 大橋村二小区津留、真菰、今井、馬場、道場寺、蓑島、稲童、松原、袋迫、高瀬、辻垣、馬場、元永、沓尾、(徳永)真菰村加来正頤旧小倉藩士
区長山本重暉有松二平 
 三小区矢留、天生田、柳井田、竹並、草場、(上豊津、下豊津、錦町、寿町、彦徳、惣社、国作、田中、有久、下原、呰見、国分、上坂、徳政、綾野)下豊津村小林厚祚 
 富村圭三
出典:『京都郡誌』、『福岡県史資料』第四輯
備考:戸長、副戸長名は明治11年2月時点のもので、上段が戸長名、下段副戸長名。( )内は現行橋市域ではない村名

 大区小区制時代の官選の戸長がどのような人々であったのか判然としないが、旧来の庄屋、大庄屋層でこの職についた者は明治一一年時点では確認できないこと、少なくとも二名が士族であることから、旧小倉藩士層がなったものと推定できる。一方、副戸長は旧庄屋などの一部も加わっているが、有力者層の名前をほとんど見出すことができない。
 さて、この小区は旧来の手永とほぼ同じ区分となっている。すなわち、第三大区二小区は旧延永手永であり、三小区、四小区はそれぞれ旧黒田手永、旧久保手永であった。第四大区の区域は一~三小区がかなり旧手永と異なっているが、それでも二小区、三小区は元永手永、国作手永を軸に区割りされている。これは旧習を断ち切って新政府の統治を末端にまで浸透させようと人為的に線引きしてみたものの、生活共同体としての村や旧来の支配の組織を無視できなかったということを示していると言っていい。