大小区会の開始

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 旧来の支配の組織を無視できなかっただけでなく、旧来の寄合も否認することができなかった。大区小区制のもとでは、地域や村の共有財産の管理や処分にあたって、官選の区長や戸長が独断で処理した結果、地域あるいは村で様々な矛盾軋轢(あつれき)を引き起こした。そこで、政府は大区小区制に代える地方制度の準備をするかたわら、いったんは否認した地域住民の合議の場を設けることとした。それが現在の地方議会の起源と言うべき小区会、大区会、県会である。これら議会制度の仕組みを見てみよう。
 福岡県では明治九年三月、官選の区戸長による会議で県会仮規則が審議され、次いで六月に区会規則要領が議定された。これら規則中、県庁で各区長が県官と会議することを県会といい、以後毎月あるいは隔月でこの県会が開催された。これが県会の始まりである。明治一〇年二月に、小区会仮規則、大区会仮規則並びに県会仮規則が制定され、県下一般に布達して直ちにこれを実施した。こうして、明治一〇年六月以降数カ月の間に、全県下いっせいに大小区会の成立を見、続いて第一回の県会議員選挙が実施された。
 大区会、小区会とはどのようなものであったのだろうか。制定された小区会、大区会の仮規則によってこの点を見てみよう。まず、小区会を見ると、議員は一町村につき一人とするが、五〇戸以上の町村は五〇戸ごとに一人議員を増加することができた。被選挙権者はその町村に本籍をもちかつ居住していて、不動産を所有する二〇歳以上の戸主でなければならなかった。ただし、不動産を所有する者の子弟の場合には、一戸から一名以内であれば、戸主でなくとも認められた。一方、選挙権者はその町村に本籍をもつ二〇歳以上の戸主とされた。選出された議員は辞退を許されず、その任期は六カ月とされた。そして無給であった。
 議会には議長、副議長がおかれ、戸長と副戸長がこれに充てられた。議会の決定は多数決で行われ、いずれも小区内の次のような事項が審議された。民費、備荒貯蓄、衛生、「孤独廃疾極貧ノ者」の救助・授産、消防水害予防、共有の事物の保存、治山治水、道路堤防橋梁、「結社営業ノ事」、「村社寺院ノ事」、小学校の設立と維持。議会は年六回の常会が開かれ、午前九時から午後四時までを常例とした。
 大区会、県会の議員は下級議会議員の互選によって選出された。すなわち、大区会の議員は一小区から七名を小区会各議員の互選によって選出され、県会議員は大区内からそれぞれ三名が互選されたのである。任期、議長の権限などは小区会とほぼ同様であった。審議事項については、大区会については地域が大区に広がっただけですべて小区会と同様であったが、県会については、「風儀ニ関スル事」、「土地ヲ開キ物産ヲ興ス事」、「水陸運輸ノ便ヲ開ク事」、「賦金ヲ課スル事」、「旧弊ヲ洗除シ開化ヲ進ムル事」などが加えられていた。
 県令渡辺清は県会規則や大小区会規則の布達に際して、これら規則の目的を次のように説明している。
 
  立会ノ大意
 今県会ト大小区会トヲ開キ公選ノ議員ヲシテ県治区務ノ状款ヲ議セシムルモノハ官民ノ情緒浹洽(しょうこう)シテ相背馳スルコトナク各人ノ心途一致シテ互ニ乖離(かいり)スルコトナカラシメンガ為メナリ……
 抑(そもそ)モ学校ヲ盛ンニシテ以テ其工芸ヲ興シ病院ヲ設ケテ以テ其性命ヲ保全シ河川ヲ疎通シテ以テ其運輸ノ便ヲ達シ物産ヲ繁殖シテ以テ其富裕ノ基ヲ成ス等ノ事ヨリ以テ盗賊ヲ攘除(じょうじょ)シ暴乱ヲ制止シ風俗ヲ正フシ公道ヲ明ニスル等ニ至ル迄官之ヲ務ムト雖一般人民ニ於テモ亦固ヨリ協同一致シテ以テ其費用ヲ弁シ其方法ヲ行ハサル可カラサル苟モ之ニ反スルアラハ亦特ニ厚生利用ノ道ヲ失フ而已ニアラス竟ミニ旧弊積習ヲ洗滌スルコト能ハスシテ永ク県下ノ盛隆ヲ期ス可カラサルニ至ラントス故ニ今議会ヲ開キテ以テ其公議輿論ヲ尽シ彼ノ異ナルモノ之ヲ同クシ彼ノ分ルルモノ之ヲ合シ以復(もってまた)乖離背馳スルコト無クシテ人々ヲシテ各厚生利用ノ道ヲ達スルコトヲ得セシメ終ニ県下一般ヲシテ益(ますます)隆盛ナラシメント欲スルナリ諸人其レ之ヲ体セヨ
   明治一〇年二月二八日
福岡県令 渡辺清