京都・仲津両郡でも、京都郡が一町九カ村、仲津郡が一三カ村に統合され、旧藩時代の村はすべて大字となった。行橋の関係町村分を示せば図1のようになる。
さて、以上の各町村の人口、戸数ならびに耕地などの状況を表示すれば表2のようになる。同表から、合併によって、人口二〇〇〇から三〇〇〇人、戸数にして三〇〇~六〇〇戸規模の村が作られたことがうかがえよう。合併理由は、行橋を除きいずれも「現今各村いずれも資力に乏しく、独立自治の目的相立難く…合併して有力村を構成せんとする」(「明治二十二年町村合併調書」)願いがあったためとされている。行橋町については「当三村ハ地籍犬牙錯雑(けんがさくざつ)、家屋連(つらなり)、恰モ一市街様ヲナシ、特ニ一四年以来一学区ニ編成セラレ、人情共和セル」(同前)とされ、同町を京都郡に編入したのは両郡の資力の均衡を図ったためであったという。「独立自治の目的」を達するために財力のある村を作り出すという合併理由から明らかなように、この合併は増大する行政費の負担に耐え、自立しうる行政村を作り出すことにその狙いがあったのである。
表2 明治22年の町村人口、戸数、耕地 | ||||
(単位:人、戸、町) | ||||
町村名 | 人口 | 戸数 | 田 | 畑 |
行橋 | 5,682 | 963 | 382 | 27 |
今元 | 3,193 | 614 | 388 | 66 |
仲津 | 3,117 | 623 | 336 | 109 |
泉 | 1,952 | 300 | 284 | 88 |
今川 | 2,385 | 400 | 325 | 55 |
稗田 | 2,123 | 371 | 361 | 61 |
延永 | 1,909 | 307 | 290 | 83 |
椿市 | 2,174 | 396 | 284 | 62 |
出典:「町村合併調書」『福岡県史資料』第三輯 |
新しく創出された町村名について触れておくと、行橋は行事と大橋から一字ずつをとって定められた。延永村はこの地域が延永手永と唱えられていたことに由来する。椿市村は景行帝が土蜘蛛を退治した伝説に因んで名づけられた。稗田村は合併町村中最も規模の大きい村名から採られた。今川村は合併六カ村を貫流する今川に由来する。泉村は合併一〇カ村がいずれも泉池に水利を依存しているところから採られた。今元村は合併村落の今井村と元永村の冠字を採って定められたが、同村では合併村の名称をめぐって関係町村で紛糾し、元永村は合併の願書に連署しなかったと記録されている。仲津村はこの地域の古来の名称から採られた。