わが国の地方制度の中で、最も広域の地方自治団体が府県である。府県制によって、政府はこの府県に自治権を与える一方で、内務省の監督下に置き、強大な権限を与えて市町村を監督させた。
自治の仕組みを見ると、府県会の選挙権者は郡市会議員、郡市参事会員で、被選挙権者は直接国税一〇円以上を納める者に限定された。郡会議員選挙と同様、一般の住民は直接選挙にかかわることができない仕組みになっていたのである。府県制実施以前の「府県会規則」(明治一一年七月公布)と比べると、住民参加という点では後退していた。というのは、府県制実施以前では、有権者は地租五円以上を納める満二〇歳以上の男子に制限されていたが、直接選挙制であったからである。
府県会には県知事、高等官ならびに議員選出参事からなる参事会が置かれ、県会とともに議決機関として機能した。官選の知事は県会や参事会の議決を執行しなければならないとされていたから、県会はかなり強大な権限をもつことになったわけである。しかし同時に、府県制では、原案が成立しなかったり、会議が成立しなかったりした場合には、知事に原案執行権や専決処分権を与えていた。後に見るように、自由党系議員が牛耳る県会に対抗して、福岡県知事はこの権限を行使し、しばしば議会の意向を無視した。また、府県が条例を制定する権利も認められなかった。さらに、教育費や警察費、郡吏員給料費、監獄費、徴兵下検査費など国政事務や義務的固有事務費の負担を義務付ける一方で、府県税として十分な財源を付与しなかったから、財政的な側面から自治は大きく制限されることになった。
郡制の項で述べたように、明治三二年に複選制は直接選挙に改められた。しかし、その選挙権者は直接国税三円以上の納税者とされ、被選挙権者は直接国税一〇円以上を納めるものに限定されていた。有産者自治という性格にはなんら変化はなかった。この年、京都郡の人口は六万人近くに達していたが、県会議員の有権者はわずか二八三九人に過ぎなかった。