天皇を中心とする強力な中央集権国家を作り出し、諸列強に対峙していこうとする政府の政策は様々な矛盾を生み出した。「富国強兵」政策に要する財源を確保するために行った地租改正は農民の期待を裏切ったし、士族層を解体する政策(秩禄処分)は旧士族層の反発を呼び起こした。士族の軍隊に代えて実施した徴兵制は、士族ばかりか平民層にも不満を蓄積させた。また、旧来の統治組織を無視した大区小区制は村落の有力者の離反を招いた。この批判や不満はまず、西南戦争に代表される士族反乱として爆発した。福岡県でも「福岡の変」や秋月の乱が勃発し、秋月の反乱軍と政府軍との戦闘が豊津で起こっている。しかし、この士族反乱は特権の喪失に憤った、いわば後ろ向きの士族層の不満であったから、国民の支持を得ることができなかった。士族反乱後、政府批判の流れは自由民権運動にまとまり始めた。
自由民権運動は「国会開設、地租軽減、条約改正」の三つの要求をもっていた。少数の人々が政治を行うのではなく、国民によって選出された議員の審議を経て、国政は運営されるべきであるし、そもそも国民を代表する議会の信任によって政府が組織されるべきである、というのが第一の主張である。地租は重税に過ぎるから軽減するべきである、国民から税金を取るなら、どれほど税金を取りそれを何に使うのかを国民が協議する場(国会)を設けるべきである、というのが第二の主張である。自由に関税をかける権利を奪われ、外国に治外法権を認める不平等な条約を早急に改正して国権を拡張せよ、というのが第三の要求であった。自由民権運動は当初は征韓論に敗れた板垣退助らの士族インテリゲンチャの運動であったが、国会開設運動が地租軽減要求と結びつくに及んで、村落の有力者である豪農層、さらには一般の農民層にも広がっていった。
政府はこうした民権運動の広がりに対して、激しい弾圧を加える一方で、地方制度を手直しして地方自治を認めていったことは、前述したとおりである。その際、政府が腐心したのは、有力地主層を徹底的に優遇して、彼らを政府の支持層に取り込むことであった。しかし、議会の開設は彼等を取り込むことはおろか、逆に地方結社の成立を促し、民権運動を活発化させることになったのである。