豊前改進党

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 民権運動は福岡でも大きな広がりを見せた。筑前では郡長であった中村耕介や郡利(こおりさとし)らを中心として明治一二年に筑前共愛会が設立され、その下部組織として各郡に多くの結社が結成された。彼らによって国会開設の建議がなされ、また憲法草案が作成されたりしている。筑後では久留米に千歳会、また柳川では公同社、有明会などが設立され活発な活動を行った。筑後でこうした結社設立運営に中心的にかかわったのが岡田孤鹿、野田卯太郎、永江純一らである。これら各地の結社は他県の結社と連携して、明治一五年に九州改進党が設立され、同党の設立を契機に柳川改進党や筑前改進党が設立されている。改進党と名乗っているが、多くは後に自由党に加わり、立憲改進党系はほとんどいなかった。
 筑前や筑後で活発な民権運動が展開していたのに対し、豊前では民権運動の動向はほとんど伝えられていないが、征矢野半弥や青柳四郎という民権派政治家を生み出した豊前に自由民権運動がなかったわけではない。「福岡日日新聞」によれば、明治一三年、「農工士商を問ハず汎く有志者」を結合した豊英社という組織が結成され、国会開設の請願を行っている。もともと豊津には旧藩士の「懇会」なる親睦組織があり、この士族組織を母体に豊英社が設立されたようである。翌一四年七月に、この両組織を統合し「自由ノ権利ヲ伸暢セント欲スル」(「福岡日日新聞」明治一四年九月七日)組織に改める協議会が大橋村の禅興寺で開催された。こうした動きの中心になったのが中川三郎、友松醇一郎、飯森辰次郎、征矢野半弥であった。「懇会」あるいは豊英社がどのように改組されたのかは明らかではないが、明治一六年には中川三郎や征矢野半弥がかかわる「公友社」なる組織ができているから、おそらくこの公友社が「懇会」の後進であったのであろう。
 明治一六年四月二二日、大橋の禅興寺で公友社員を中心として豊前改進党が結党された。結党式の前日、「大行舎」で政談演説会が開催された。弁士と演題は、島田一夫「士族授産金の得失を論ず」、山本勇治「出乎爾者反乎爾」、木川彦次郎「政府組織」、中川三郎「来れ我れ爾と共にせん」、二木猛雄「日本ハ日本人民の日本也」、征矢野半弥「改良論」であった。当時の新聞は「聴衆二千余人、拍掌喝采ハ満堂破るが如くなり」と熱気あふれる演説会の様子を伝えている(以上は『福岡県史 近代史料編 自由民権運動』による)。