県会と政党

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 民権運動家は地方議会が開かれると、議会に進出していった。彼らは政府任命の知事と激しく対立しながら自由党系政治家として県政の一翼を担っていくのである。一方、福岡の政界にはこうした民権派と政治的立場を異にする政党も形成されてきた。民権派から分かれた玄洋社やそれを母体に設立された筑前協会、旧久留米藩の保守派佐々木正蔵を中心に設立された筑後同志会がそれである。彼等もまた議会を目指すことになる。
 京都仲津郡出身県議は表3に示したようになる。明治一〇年代には、稗田村の村上貫一郎、今元村の守田精一、豊津の入江淡が活躍している。一〇年代後半から、豊前改進党で活躍した二木や中川、そして征矢野が県議を務めている。征矢野は明治二一年からは築城郡から選出されたが、常置委員を務めるなど県政で重きをなしていた。明治二〇年代になると、行橋の草野信吉、桝見茂平、椿市の安田雲斎、今川の向井又蔵らが県議の常連となっている。安田雲斎は京都郡自由党の長老で、副議長も務めた。村上保之や向井又蔵は数少ない知事支持派(吏党)であった。
 
表3 京都・仲津郡出身県会議員
選挙年月議員名
明治11年選出入江淡守田精一村上貫一郎 
明治13年半数改選入江淡福井半三郎村上貫一郎 
明治14年1月入江淡守田精一村上貫一郎 
明治15年8月入江淡守田精一村上貫一郎 
 (長野盛徳)(二木猛雄) 
明治17年5月筒井省吾平松栄蔵村上貫一郎 
 (中川三郎)(征矢野半弥) 
明治19年1月挟間畏三平松栄蔵中川三郎 
 (広瀬正種)(征矢野半弥) 
明治21年1月広瀬正種桝見茂平 
明治23年2月草野信吉桝見茂平宮下賢造中川三郎
明治25年10月草野信吉安田雲斎向井又蔵村上保之
明治27年5月草野信吉安田雲斎向井又蔵村上保之
 (林田六郎)(林主税)
明治29年10月向井又蔵安田雲斎 
明治31年10月安田雲斎守田鷹太 
明治32年9月安田雲斎城戸厳治 
明治36年9月安田雲斎園田福市 
  (佐々角太郎) 
明治40年9月和田又八郎佐々角太郎 
明治44年9月中村憲一郎佐々角太郎  
出典:『詳説福岡県議会史』
備考:( )内は任期途中の辞職・失職に伴う補欠当選

 明治三〇年代には、中央で立憲政友会と憲政本党(後国民党)の二大政党に分かれると、地方議会も両派に分かれ、選挙で相争った。明治三六年の県議選では、四一名中政友会が二八名、明治四〇年の選挙では四三名中政友会三四名、明治四四年の選挙では四六名中三九名であり、それぞれ一〇名、六名、七名に過ぎなかった憲政本党を政友会が圧倒した。京都郡でも政友会系の候補が強く、安田雲斎や和田又八郎、佐々角太郎、中村憲一郎らが当選している。憲政本党では園田福市が一期当選したのみである。
 明治一〇年代、民権派(後自由党、政友会)はこの地域においては必ずしも強くはなかった。この地域が自由党の流れを汲む政友会の金城湯池になったのは、官僚で政府支持の立場から京都郡から国政に出馬した末松謙澄が政友会の創立発起人であったことと関係していよう。政友会の成立とともに、かつて末松を支持した柏木勘八郎など行橋の有力者の多くが政友会に加盟した。
 明治時代、ことに伊藤博文と自由党(憲政会)が提携して政友会が創立されるまで、県会と県知事は激しく対立した。とりわけ対立が激しかったのは、安場保和県令(後知事)時代(明治一九年二月~二五年七月)であった。安場は九州鉄道の設立に大きな役割を果たすなど、有能な官吏であったけれども、国権主義的思想の持ち主であった。福岡では玄洋社に親近感を持っていて、自由党系の人々とはそりが合わなかった。県会は自由党系の政談社が大勢を占めていたから、事あるごとに両者は衝突した。彼の在任中、一一もの議案が否決あるいは修正減額されている。これに対し、知事はしばしば原案執行権を行使して対抗した(『詳説福岡県議会史』)。