国政選挙と干渉

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 明治二三年、前年に発布された大日本帝国憲法に基づいて、第一回衆議院選挙が実施された。福岡県は八選挙区に分かれ、京都郡は仲津・築城・上毛の三郡とともに第八区に属した。同区から出馬したのは征矢野半弥と末松謙澄である。また企救・田川の二郡を地域とする七区では、青柳四郎と行事出身の堤猷久が名乗りを上げた。有権者は直接国税一五円以上を一年以上(所得税の場合には三年以上)納める二五歳以上の男子とされ、被選挙資格は三〇歳以上の男子で、選挙権者と同一の納税条件を持つものであった。地租を一五円以上払う人とは、おおよそ一・五町~二町以上の土地所有者である。こうした資格をもつこの時の有権者は全国で四五万人、総人口の一・二四%に過ぎなかった。
 有権者が少数であったうえ、明治三三年(一九〇〇)まで投票用紙は記名制であったから、票固めもやりやすく、また選挙干渉も容易に行えた。一票をめぐって激烈な争いが展開されることになった。行橋町の有力者である柏木勘八郎や福島甚六らに支持された末松は優位に選挙戦を進め、当選した。一方、七区でも堤猷久が青柳を破って当選を果たした。両区とも吏党といわれる候補が当選した。福岡全体でも民権派(民党)の流れを汲む候補は惨敗した。
 しかし、全国的には立憲自由党と立憲改進党からなる反政府派が多数を占め、軍備拡張予算などを削減して政府を苦境に追い込んだ。議会運営に苦慮した政府は明治二四年末議会を解散し、品川内務大臣の指揮のもとに露骨な選挙干渉を行った。福岡では、民党嫌いの安場知事によって大干渉が行われた。県庁を総本部に、郡役所、警察署、吏員を総動員して票を集め、他方では壮士団を使って、民党支持者を恫喝した。その様相を「福岡県会物語」の著者は次のように述べている。「白昼、刀をさげて脅し廻るのはまだいいほうだ。鉄砲はブッぱなす、家は火をつけて焼き払うといった狼藉ぶりで、これが采配を、郡長や署長がとってやらせるのだから世話はない」。村ごとに、郡長などの指揮の下に警察官が乗り込み、票の半分を吏党に回すことを約束させる一方で、接待戦略も盛んだった。「巡査が酒と肴をもって村々を廻った話はザラにある。殊にはげしかったのは、行橋方面で、吏党候補の堤猷久氏は、大行舎で演説会をやった揚句、料亭安楽亭に二千何百人の有権者を駆り集め、飲めや唄えの乱痴気騒ぎだ」(望月見吉「福岡県会物語」)。
 第八区の候補者は前回同様、末松と征矢野で、結果も前回同様末松が悠々当選した。また第七区から出馬した堤も福江角太郎を打ち破った。県内の民党は六区の岡田孤鹿を除き全滅した。しかし、こうした大干渉にもかかわらず、政府は勝利することはできなかった。過半数の一六三の議員が反政府派だった。結局、選挙干渉があまりにひどかったので、内相の品川は辞職を余儀なくされ、安場知事も愛知県に転任の後、非職となった。