明治期行橋地域出身の議員として国政で活躍したのは末松謙澄と堤猷久であった。二人の事跡を一瞥しておこう。末松謙澄は安政二年、大庄屋・末松七右衛門の四男として稗田村に生まれた。村上仏山の水哉園に学んだ後、東京師範学校に一時入学したが、ほどなく退学し、東京日日新聞社に入社した。やがて伊藤博文の知遇を得て官界に入り、二四歳の時、官費留学生として渡英、ロンドン滞在は八年余りに及んだ。帰朝後、内務省県治局長を務める傍ら、演劇改良運動に取り組んだ。三五歳の時、伊藤博文の次女と結婚した。明治二三年、政界に転じ、第一回衆議院選挙に立候補して当選した。立憲政友会の創設に加わった他、伊藤内閣の逓信大臣、内務大臣を務め、さらに晩年には枢密顧問官を務めた。政治家としてだけでなく、文学、史学、美学などに造詣が深く、帝国学士院会員にも推されている(以上、玉江彦太郎「末松謙澄年賦解説」による)。有り余る才能をもった人物であったと言えよう。
堤猷久は嘉永六年、行事村(現行橋市行事)に生まれた。父半蔵は京都郡勧業係として農事改良に尽力した人物である。猷久は水哉園で漢学を修得した後、明治六年頃上京してオランダ人から英語と数学を学び、さらに東京農学社で農学や理化学を学んだ。明治一〇年に帰福し、福岡県庁に出仕している。勧農係を務め、明治一二年に福岡県勧業試験場が設立されるとその初代場長に任命された。以後、農務一筋に歩み、明治一九年には農務課長となっている。明治一〇年代、猷久は福岡県の勧農政策に中心的な役割を担ってきたと言えよう。明治二二年九月に職を辞し、第七区から無所属で立候補した。対立候補の青柳四郎を打ち破って当選を果たし、以後合わせて四期、衆議院議員を務めている。国会では当初、大成会に属したが、後国民協会に名を連ねた。