郡長排斥町民大会

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 町村に対して県知事や郡長は強大な監督権をもっていた。郡長の巡視に町村は緊張し、郡長の靴の紐が解けたりすると、村長や吏員は争って足元に駆け寄って、結びなおしたという。しかし、住民の自治意識が高まるにつれて、町村民と郡あるいは郡長は時には対立するようになった。その典型的事例が行橋町民による佐藤信寿郡長排斥運動である。
 排斥運動の発端は井上貢行橋町長と佐藤郡長との軋轢であったといわれる。両者の軋轢から「町政に波乱を起こし」(井本清美「徳田伊勢次郎メモ-行橋町長在職十六年間の記録-」)た責任をとって、井上町長は大正八年六月に辞職した。「軋轢」の内容は定かではないが、排斥運動は、井上町長や町議会の意向を無視した郡長による校長人事が大きなきっかけであったことは間違いない。人望のあった校長を追い出し、腹心の校長を郡長が迎えたというのである。町では「京都郡長佐藤信寿排斥期成同盟会」が組織された。町会では、物価騰貴に対する小学校職員給与増俸決議の際、この校長とその腹心を除外して五割増俸決議を行い、郡長経由で県に申請した。これに対して県は三カ月後に却下してきた。町会議員は討議の末、議員総辞職を決定した。県議などが仲裁に入り、郡長が校長に辞表を提出させることと引き換えに、町議が辞表を撤回することでいったんまとまった。しかし、町民は納得せず、校長とその腹心に対する増俸拒否の真の目的は郡長排斥にあるとして、郡長と妥協した町議をも批判し、大正八年一一月一一日、劇場の大行舎で「郡長排斥町会擁護町民大会」を決行した。会場には定刻前から町民が続々入場し、ほとんど立錐の余地がなかったと当時の新聞は伝えている。村上亮三郎の開会挨拶後、佐々木喜蔵「大正行橋の大岡越前」、古野喜馬太「町民は決して眠り居らず」、佐野隆生「狂行橋の三角闘」、門田鉄扇「町民と郡長」、奥寿「町民の覚醒を促す」、中原善春「黄昏の行橋か黎明の行橋か」の演題で、弁士が熱弁をふるった。そこでは、郡長の悪政として川下の埋築問題、製鉄所設置運動のために上京した井上町長への処罰、女学校敷地問題で行事区大橋区を翻弄して多額の寄付をなさしめようとしたこと、などがあげられている。
 町民大会の最後に、満場割れんばかりの喝采をもって以下の決議文が採択され、住民有志と町会議員は郡長に決議文を手渡した。また、翌日には代表がこの決議文を携え、知事に対して郡長の処断を陳情した(以上、前掲「徳田伊勢次郎メモ」による)。
 
    決議文
 邦家の隆運は自治体の健全なる発達に基因し之が確立に俟たざるべからず、然るに当佐藤郡長は此の大精神を没却し徒らに其地位を悪用しと毒(ママ)し混乱紛糾の極を尽さしむるに至る、是れ其の施政機宜を失せるが為めにして郡を統轄し郡を代表するの能力なきものと認む、依て吾人は立憲の大義に則り辞職を勧告し以て自決を促す
 この郡長排斥事件で重要なことは、真偽のほどはともかく、行橋町民が、郡長が住民自治の発展に障害となっている、と認識していたことであろう。ここでは郡長個人の問題として現れてきたが、自治の発展の障害となっていたのは、実は郡制そのものであった。町村が郡役所の経費や仕事をほとんどすべて負担しながら、郡長などから微細な点まで監督を受けたのである。郡長や郡役所に対して反感がわかないはずはなかった。町村会や町村長を中心に、郡制廃止の声は次第に高くなっていくのである。