郡制廃止と事業の移管

69 ~ 70 / 840ページ
 大正一〇年、政府は郡制廃止法案を国会に提出し、可決された。地方事務の多くは府県や町村で行われていて郡の事務は少ないこと、廃止すれば地方行政組織を簡素化できるだけでなく、郡費の負担が減少する分町村自治を発展させることができる、というのが廃止の理由である。廃止といっても、自治体としての郡を廃止したのであって、郡を行政区画とし郡長を純然たる行政官吏として町村の指導監督に当たらせる体制は維持された。郡長は依然強大な権限を握っていた。
 郡制の廃止を強く要求したのは、自治権の拡張を求める町村であった。町村長会は郡制廃止にとどまらず、郡役所の廃止と町村の権限拡張(住民自治の拡大)、さらには知事公選を求めて運動を強めていた。こうした町村長会の主張は大正デモクラシーのもとで幅広い国民の支持を受けていたのである。
 郡制廃止にともなって、これまで郡が行ってきた事業や郡の営造物は県か町村に移管されることになった。京都郡関係の移管について見てみよう。郡立学校については京都郡立農学校と豊津実業女学校は県営に移管された。郡道は総延長七八八里のうち七四%にあたる五八八里が県に移管された。
 河川堤防については、延長距離二里以上で、一〇カ年の年平均修繕費が五〇〇円以上の堤防を県営に移し、後は町村に移管した。県の基準に合致するのはわずか二二河川で、残り二四一河川の堤防は町村に移管された。しかし、負担増を危惧する町村の強い要望もあって、大正一二年、このうち一九一河川の管理が県に移管された。行橋の祓川と長峡川がこの時県の管理に移されている。この結果、今川を含め行橋の三河川はすべて県の管理となったわけである。海岸の堤防は一〇カ所を除きすべて町村管理に移された。また堰や溜池、用水路、樋管などもすべて地元町村または町村組合などに移管された。