議会選挙で二五歳以上の男子すべてに選挙権が与えられたことによって、選挙や議会の様相は以前とは大きく異なってきた。農民組合は「村会は農村経済の集中的表現である。村会は我々農民大衆の血の脈管で作った家屋である。この家屋こそ我々の支配のもとに置かねばならぬ」(全国農民組合福佐聯合会「市町村会を戦はんとするに当りて」昭和一二年)として、農民運動を基盤にした人々が議会にも進出してきたのである。築上郡の宇島町では、昭和一〇年には無産政党出身の町長が誕生している。この地域でも、農民運動の指導者の一人であった有永霊城が昭和四年、行橋町町会議員に当選した。昭和八年には、行橋町で三名、泉村で二名、今元村で一名の全農、日農の組合員が町村議に当選している。
農民組合を背景にした人々が議会でどのような活動を行ってきたかは明らかではない。全農福佐聯合会の政策スローガンは、義務教育費国庫負担、戸数割の廃止、水車税、荷車税など悪税の廃止、不在地主税、財産税、蓄妾税などの新設であり、町村に対する要求は土木事業の勤労農民中心化、社会的事業施設(農繁期無料託児所、共同浴場、共同住宅など)の整備、衛生保健施設(公立無料の診療所、病院、産院など)の完備、小学校授業料の廃止、昼食、学用品の供与であった。
衆議院選においても、昭和七年、無産運動を背景に全国労農大衆党から小池四郎、社民党から古市春彦が立候補し、小池四郎は当選した。また、昭和一二年には田原春次(社会大衆党)が当選を果たしている(これらの人々については「社会運動」の項を参照のこと)。
無産政党が進出する以前、この地域の衆議院選挙は政友会と民政党という二大政党の候補がしのぎを削っていた。政友会から内野辰二郎、坂井大輔、民政党からは勝正憲、末松偕一郎らが行橋の属する選挙区選出の国会議員として活躍した。この内、末松が京都・築上郡を地盤としていたが、彼は築上郡友枝村の出身であった。内務省や台湾総督府に務め、広島県知事や滋賀県知事等を歴任したのち、代議士となった。