大戦後の反動恐慌以降、わが国は慢性的不況に苦しんでいたが、とくに農業が深刻であった。農業にとりわけ打撃が大きかったのは、アメリカの恐慌に端を発する昭和恐慌のためであった。長期の不況で農産物価格が下落していた上、アメリカ向け輸出が主体の蚕糸業が壊滅的打撃を受けたからである。農村不況は町村財政をも危機的状況に追い込むことになる。
図5に明らかなように、蓑島村では歳入に占める村税の比率が次第に低下し、大正九年には歳入の七二%を占めた村税は大正一四年には五四%に落ち込み、昭和五年になると四五%を下回るようになった。これは村税が軽減されたからではなく、町村民の所得の減少のために村税収入が伸び悩んだ結果であった。村民の租税負担は農産物価格の減少などで所得が減少したにもかかわらず、この間村税負担はむしろ増大している。重い負担に耐えかねて、税金の未納者が次第に増大した。例えば三七〇戸ほどの稗田村では昭和八年一四一人の未納者が出ている。一方、税収の停滞によって、この頃多くの町村が、新土木事業を当分中止したり、区長の日当や議員費用弁償あるいは委員日当の一部の村への寄付を関係者に求めなければならなかった。また、役場吏員や学校職員の年末賞与がカットされたりした。この地域ではないが、東北地帯では、給与が支払えなくなった町村が相次いだ。農村の深刻な不況を背景として町村財政も危機的状況に陥りつつあった。
農村の疲弊に対し、政府は農村振興のために、昭和七年から三年間、集中的に土木事業など様々な事業を地方自治体に実施させた。行橋町でもこの農村振興土木事業資金によって種々の事業を行っている。すなわち、昭和七年から三年間にわたり時局匡救事業費計九五〇〇円を助成され、これら資金に町村資金を加え、新市街地街路側溝施設費や道路、橋梁の建設・修繕などを実施したのである。
また、この頃行橋地域でも失業者が増大したので、失業労働者に国道改良工事などの仕事を紹介する事業などが行われた。