世界恐慌後、各国は次第にブロック化を進めたが、我が国も中国侵略を拡大して、日中戦争を引き起こし、これがさらに英米との全面戦争を不可避としていった。戦争の拡大につれて、政府は人や物資や資金を戦争へ全面的に動員するために、国民生活のあらゆる面にわたって統制した。地方財政もこうした戦時体制のなかに組み込まれて、その姿を大きく変えていくのである。
戦争の拡大とともに、政府は膨大な軍事財政の財源を確保するために、地方財政の歳出抑制を自治体に指示した。しかし、政府は他方で、戦争の遂行のために、防空や国民教化、あるいは軍事援護施設の設置などを地方自治体に義務づけたから、こうしたいわゆる時局関係費は増大せざるを得なかった。残念ながら、行橋地域ではこの時期の記録が残されていないため、具体的に明らかにしえないが、近隣の村の統計によれば、昭和一五年から二〇年までの間に財政支出は増大し続けている。経費増大の内容を見ると、戦時期には、かつて歳出の過半を占めた教育費が落ち込み、勧業費や土木費、役場費が激増している。災害復旧を別とすれば、土木費の多くや勧業費は食料増産対策費、具体的には農地造成費であった。戦時下の農村に何より求められたのは、米麦などの食糧の増産である。役場費の増加は委任事務の増大による役場吏員の増加を示している。これらのほか、時局関係費あるいは戦時特別費など戦争関連の支出が急増した。貯蓄奨励費や供出促進費、動員事務費、慰問費あるいは防空演習や消火活動費などがそれで、いずれも典型的な時局関係費であった。
こうした食糧増産維持のための土木事業や時局関係の委任事務の増大は、従来の貧弱な財源ではとても賄えるものではなかった。前述したように、慢性的な不況のもとで農村財政は窮乏化の一途をたどっていたからである。政府は地方財政を抜本的に改革する必要に迫られていたが、改革に当たっては、地方自治体間の財政的不均衡問題も解決しなければならなかった。農村財政が窮乏化する一方で、軍需景気に沸く重工業地帯の自治体は財政的には豊かだったから、地方自治体間に著しい格差が生じていた。
政府は昭和一五年、増加する軍事支出に対応するべく、国税地方税を通じた抜本的な税制改革を実施した。地方税制改革では、戸数割が全廃され、独立税として市町村民税が設けられたりしたが、改革の根幹は地方分与税制度の創出であった。同制度は所得税及び法人税や入場税、遊興飲食税の一部を、配布税として道府県と市町村へ配布するという制度である。配布に当たっては、各団体の課税力や財政需要、あるいは特別な事情が基準とされており、自治体間の財政力格差の調整がこの制度の狙いであった。
この改革によって行橋地域の町村の歳入がどのように変化したかを示す資料は存在しない。近隣の町村資料によれば、歳入に占める村税の比率は昭和一五年で一〇%以下になり、昭和二〇年に至ってはわずか二~三%に低下している。村税の比重が低下するのに反比例して、地方分与税、補助を合わせた国庫あるいは県費への依存が大きくなっており、この段階に至って町村は借入と国や県に依存することなしには行政サービスをほとんどできなくなっていたのである。戦時下で、町村は自治体としての実質も形態も完全に喪失していたといえよう。