行橋町耕地整理事業

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 大正九年(一九二〇)、第五代の行橋町長になった徳田伊勢次郎は、「行橋駅を玄関とした秩序ある町づくり」をめざして、都市計画、当時の耕地整理事業を行い、行橋駅前一帯に新市街地をつくりあげた。
 
 長峡川は往昔満潮時は相当の水深を有し、従って舟筏の便を得、行橋町の繁栄を資けたりといえども、今や土砂堆積、漸次浅瀬と化し、ほとんど舟筏の便を失い、一面、明治二八年以来田川線および日豊線の敷設により、繁栄の中心移動し、行事方面の繁栄は、大橋および宮市に移り、行橋駅方面を中心として、漸次発展の傾向を示しつつあり。駅新設以来すでに三十有余年経過せしといえども、駅前一帯に横たわる数十町歩の耕地は依然として農耕地に利用せられ、商業地帯は駅と隔絶し、市街美の見地よりするも、その殺風景は初めてこの地に足跡を印したる者をして、行橋町がいかにも保守主義を堅持していたるが如き感をおこさしめたりしも、時勢の進運は該耕地一帯の宅地化を促すこと切なるものあり。駅付近耕地を中心としたる新市街の計画は急務中の急務なり。

 
 これは、行橋町耕地整理事業を開始する時、徳田町長が記した趣意書である。
 この市街地形成の構想は、徳田が推されて行橋町長に就任(大正九年一〇月)以来抱いていた計画であった。徳田町長は、いろいろと研究を重ね、自ら各地の視察を行ったが、特に先年完成した大里町(現北九州市門司区)および飯塚町(現飯塚市)の二つの町の事業の結果に心をひかれた。
 その実施方法としては、県から補助金や援助、起債などの得やすい耕地整理法に基づいて組合を組織し、組合債を起こして施行するのが最善策であるとの結論を得た。
 徳田町長は、町議会に諮った上で設計調査を福岡県庁に委託することにし、調査費として大正一一年度三〇〇円、大正一二年度五〇〇円を町費支出として決定。県庁から技師・技手各一名が派遣され、大正一一年一一、一二両月に約二六町歩に及ぶ予定面積の測量を行い、直ちに実施設計を完了した。