財政困難の克服

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 この種の土木事業の最大の悩みは多大の資金を要することであった。
 大正一二年二月、組合結成に当たって工費予算額六万五九二〇円(のち、地区外道路潰地補償費その他設計変更のため、大正一四年五月招集の組合総会において一万九六〇〇円を追加し予算総額八万五五二〇円となる)を、どのようにして調達する計画を立てたのであろうか。
 まず当面七万円ばかりを起債に負うことにし、のち必要経費を組合員より組合費賦課金とし徴収することにした。賦課金賦課の方法は、地区内田宅地反別二二町一反三畝五歩より、整理の恩恵を受けない宅地(宮市地内五反二二歩、大橋地内一反三畝二三歩)を除外した総反別を、整理後における利益増進の程度(すなわち、地価上昇の程度)を参酌してこれを、一等ノ一(反当一〇〇点)より一〇等ノ三(反当三点)までの三〇段階に区分し、点数制度とした。
 こうして予算増額、起債などの知事認可を得て長期借入金の交渉に当たったが、大正一二年の関東大震火災復興のため地方における金融は梗塞(こうそく)し、借入金の調達には苦労した。しかし、なんとか総額六万七〇〇〇円を勧業銀行から借り入れ、事業を進めた。
 この勧業銀行借入の長期債の償還を終えた昭和一五年二月が、本耕地整理組合の任務完了の時期でもあった。
 整理費賦課金も毎年順調に徴収を了え、昭和一四年度までに一〇万五六〇三円を計上している(最高額は柏木勘八郎の二万五一六五円)。このほか、県費補助金、町補助金などを加え総収入は一九万九九〇〇円に達しており、支出関係も、工事費の七万三九八八円、公債償還(一〇万八〇五九円)、事務費(一万一九一三円)、記念碑建設費(一八三四円)などを加え同額に達している。