では、当時この地域でどのようなものが生産されたのであろうか。それを見たのが表1である。これによると、明治一〇年頃主として作られていたのは米や麦などで、価格にして九八%がこれら主穀生産であった。明治二三年の『福岡県農事調査』は、こうした状況を「本郡農民ハ常ニ旧法ヲ守リ敢テ改良ヲ図ルモノ鮮(すくな)ク重ニ力ヲ米麦等ニ尽シ果実若クハ蔬菜等ノ有利有益ナル植物ニ意ヲ注カサルヲ以テ却テ他ノ輸入ヲ仰クカ如キ傾キアリ」と記している。
表1 明治10年における京都・仲津郡の生産物 | (単位:円) | ||||
種別 | 反別 | 数量 | 単位 | 生産高 | 比率 |
主穀 | 322,664 | 98.1 | |||
米 | 5,138 | 56,667 | 石 | 257,495 | 78.3 |
糯米 | 567 | 6,018 | 石 | 28,074 | 8.5 |
大麦 | 220 | 1,906 | 石 | 2,596 | 0.8 |
小麦 | 272 | 1,827 | 石 | 5,400 | 1.6 |
裸麦 | 1,017 | 7,587 | 石 | 19,434 | 5.9 |
粟 | 68 | 442 | 石 | 1,076 | 0.3 |
黍 | 0 | 4 | 6 | 0.0 | |
稗 | 33 | 356 | 石 | 427 | 0.1 |
大豆 | 215 | 1,405 | 石 | 6,512 | 2.0 |
蕎麦 | 138 | 655 | 石 | 1,644 | 0.5 |
蔬菜 | 550 | 0.2 | |||
蜀黍 | 2 | 19 | 石 | 30 | 0.0 |
玉蜀黍 | 0 | 531 | 11 | 0.0 | |
甘藷 | 21 | 97,891 | 斤 | 489 | 0.1 |
馬鈴薯 | 0.0 | ||||
椎茸 | 58 | 20 | 0.0 | ||
加工原料作物 | 2,223 | 0.7 | |||
実綿 | 24,721 | 斤 | 1,658 | 0.5 | |
麻 | 700 | 斤 | 112 | 0.0 | |
繭 | 397 | 斤 | 99 | 0.0 | |
葉煙草 | 4,105 | 144 | 0.0 | ||
菜種 | 53 | 石 | 207 | 0.1 | |
紅花 | 4 | 2 | 0.0 | ||
農産物加工品 | 3,153 | 1.0 | |||
生糸 | 127 | 斤 | 610 | 0.2 | |
製茶 | 50 | 斤 | 25 | 0.0 | |
生蝋 | 25,200 | 斤 | 2,518 | 0.8 | |
紙類 | 21,000 | 束 | 0 | 0.0 | |
その他 | 444 | 0.1 | |||
蜂蜜 | 450 | 27 | 0.0 | ||
食塩 | 350 | 石 | 245 | 0.1 | |
乾鰕 | 2,150 | 斤 | 172 | 0.1 | |
合計 | 329,034 | 100 | |||
出典:九州産業史料研究会『明治前期福岡県農業統計 農産篇』 |
この地域でもそ菜や様々な加工原料作物が生産されていなかったわけではない。明治一〇年頃には、京都・仲津郡の海岸の村々では綿花が作られていたし、この地域一円で種々のそ菜のほか、麻や藍、煙草、櫨(はぜ)、綿などが作られていた。しかし、これらの生産物は櫨を除けば自家消費が中心で、生産額は微々たるものであった。多くの物産、たとえば綿や大豆でさえ、呉服太物(ふともの)、塩、魚などに加えて他地域から移入しなくてはならなかったのである。
農産加工品も同様の状況であった。『福岡県物産誌』によれば、豊前の物産として蝋、石灰、小倉織、紙、生糸、石炭などが挙げられているけれども、豊前の製蝋の中心地は田川郡で、豊前に九六戸あった製蝋家のうち四四戸は田川であったし、紙製造も企救郡や田川郡の山間部が中心であった。織物は豊津の旧士族の婦女子によって盛んに織られていたものだった。もっとも、製蝋は田川に次いで京都・仲津両郡が多く、製蝋業者は両郡合わせて二五戸を数えていた。蝋は米麦に次ぐ産物だった。
以上のように、商業的農業や在来産業は必ずしも発達してはいなかったが、すでにこの当時、行橋は豊前商業の中心地としての地位を確立していて、米では豊前の移出額の四〇%、生蝋では六六%が行橋から大阪などに移出されていた(この点については、「商業・金融」の項を参照のこと)。