明治前期の生産物

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 明治前期、行橋の人々はどのような職業についていたのであろうか。行橋地域の統計がないので、当時の職業構成を京都郡と仲津郡の統計によって見てみると、図1に示したようになる。これによると、農業は八〇%に達し、商工業は一〇%ほどを占めるに過ぎない。圧倒的多数の人々が農業に従事していたわけである。後述するように、北九州地域で近代的大企業が発展し、北九州工業地帯が形成されるとともに、徐々に脱農化が進んでいくが、それでも一九四〇年代までは過半の人々が農業に従事していた。第二次大戦以前の行橋地域は基本的には農業を産業の中心としていたのである。
 
図1 明治15年の京都・仲津郡の職業構成
図1 明治15年の京都・仲津郡の職業構成
出典:『福岡県統計書』明治15年版

 では、当時この地域でどのようなものが生産されたのであろうか。それを見たのが表1である。これによると、明治一〇年頃主として作られていたのは米や麦などで、価格にして九八%がこれら主穀生産であった。明治二三年の『福岡県農事調査』は、こうした状況を「本郡農民ハ常ニ旧法ヲ守リ敢テ改良ヲ図ルモノ鮮(すくな)ク重ニ力ヲ米麦等ニ尽シ果実若クハ蔬菜等ノ有利有益ナル植物ニ意ヲ注カサルヲ以テ却テ他ノ輸入ヲ仰クカ如キ傾キアリ」と記している。
 
表1 明治10年における京都・仲津郡の生産物(単位:円)
種別反別数量単位生産高比率
主穀   322,66498.1
 米5,13856,667257,49578.3
 糯米5676,01828,0748.5
 大麦2201,9062,5960.8
 小麦2721,8275,4001.6
 裸麦1,0177,58719,4345.9
 粟684421,0760.3
 黍04 60.0
 稗333564270.1
 大豆2151,4056,5122.0
 蕎麦1386551,6440.5
蔬菜   5500.2
 蜀黍219300.0
 玉蜀黍0531 110.0
 甘藷2197,8914890.1
 馬鈴薯    0.0
 椎茸 58 200.0
加工原料作物   2,2230.7
 実綿 24,7211,6580.5
 麻 7001120.0
 繭 397990.0
 葉煙草 4,105 1440.0
 菜種 532070.1
 紅花 4 20.0
農産物加工品   3,1531.0
 生糸 1276100.2
 製茶 50250.0
 生蝋 25,2002,5180.8
 紙類 21,00000.0
その他   4440.1
 蜂蜜 450 270.0
 食塩 3502450.1
 乾鰕 2,1501720.1
合計   329,034100
出典:九州産業史料研究会『明治前期福岡県農業統計 農産篇』

 この地域でもそ菜や様々な加工原料作物が生産されていなかったわけではない。明治一〇年頃には、京都・仲津郡の海岸の村々では綿花が作られていたし、この地域一円で種々のそ菜のほか、麻や藍、煙草、櫨(はぜ)、綿などが作られていた。しかし、これらの生産物は櫨を除けば自家消費が中心で、生産額は微々たるものであった。多くの物産、たとえば綿や大豆でさえ、呉服太物(ふともの)、塩、魚などに加えて他地域から移入しなくてはならなかったのである。
 農産加工品も同様の状況であった。『福岡県物産誌』によれば、豊前の物産として蝋、石灰、小倉織、紙、生糸、石炭などが挙げられているけれども、豊前の製蝋の中心地は田川郡で、豊前に九六戸あった製蝋家のうち四四戸は田川であったし、紙製造も企救郡や田川郡の山間部が中心であった。織物は豊津の旧士族の婦女子によって盛んに織られていたものだった。もっとも、製蝋は田川に次いで京都・仲津両郡が多く、製蝋業者は両郡合わせて二五戸を数えていた。蝋は米麦に次ぐ産物だった。
 以上のように、商業的農業や在来産業は必ずしも発達してはいなかったが、すでにこの当時、行橋は豊前商業の中心地としての地位を確立していて、米では豊前の移出額の四〇%、生蝋では六六%が行橋から大阪などに移出されていた(この点については、「商業・金融」の項を参照のこと)。