農家経済

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 『福岡県農事調査』によって、明治二〇年頃の京都郡の農家の様子を見てみよう。前述のように、彼らは主として米や麦を作っていたが、すでにこの頃には土地所有の規模や経営規模には大きな差があった。土地所有規模でいえば、一〇町以上所有層が六八戸、一〇町~二町所有層が六六九戸存在する一方で、二町以下しか土地を所有しない層が四七四〇戸(全体の八七%)も存在していた。自作農は二七%、自小作農が四三%、小作農が三〇%で、土地を借りて農業を行う人々が七三%にも達していた。この時点で、地主小作関係が広範に展開していたことがうかがえよう。
 農家の大部分を占める自小作や小作の生活は厳しいものであった。福岡県が調査した京都郡の米作一反当たり収支をみると、表2のようになる。これによれば、九円四四銭五厘の収入に対し、支出は一〇円六〇銭で、一円一五銭四厘の赤字になっている。自家労賃三円三七銭を控除すると二円二一銭の黒字だが、ここから租税などの公租を支払うことになるから、結局手元に残るのは一反当たり七二銭三厘ということになる。八反を経営する農家は、一年間働いて五円七〇銭ほどを手にするわけである。当時、『福岡県勧業年報』によれば、京都郡の大工は日給二八銭、酒造業の労働者は年給五九円であったから、農家収入がいかに少なかったか理解しえよう。
 
表2 旧京都郡における米作一反当たり収支
(単位:円)
支出収入
小作料4.950玄米7.650
器具損耗0.390屑米0.690
0.1891.000
灌漑費0.130籾糠0.105
牛馬耕費0.540  
肥料1.030  
自家労賃3.370  
 苗代拵蒔・苗菜0.195  
 整地耕鋤0.520  
 挿苗0.120  
 除草0.780  
 施肥0.455  
 収納1.300  
合計10.599 9.445
 公費1.493  
  地租1.125  
  地方税0.208  
  町村費0.160  
総計12.092総計9.445
出典:『福岡県農事調査』

 表2から明らかなように、農民の大きな負担になったのは高い小作料と地租であり、生産費では肥料であった。肥料は主として堆積土や雑草、厩肥など自給肥料が用いられたが、石灰もかなり用いられており、問屋や製造業者から石灰を前借りしたり、資金を借り入れてこれを購入するものが多かった。その金利は、肥料を借りた場合は二割、現金を借りれば一割五分に達した。
 米の収穫期になると、仲買人が農村にやってきて三俵、四俵と買い取ったり、農民自ら米穀問屋に輸送して売却したりしたが、価格交渉では商人に主導権をとられがちであった。ようやくにして手に入れた現金も、小作料と税金を払い、借金を返済すればいかほども残ることはなかったであろう。日雇いや行商などに従事したり、夜業にいそしんでかろうじて生計を維持していた。彼らの休業日は陰暦元旦、盆、節句など年わずか二〇日ほどであったという。
 ぎりぎりの生活を送っていた農民は、明治一四年以降展開された政府の緊縮政策によってもたらされた米価の下落によって、急速に没落を余儀なくされた。明治一〇年代の京都・仲津両郡の土地担保借入金の状況をみると、明治一〇年に七万六〇七一円であったのに、明治一四年には二七万一七九円にもなっている。困窮した農民が借金を増やしていったことがうかがえよう。この頃土地移動も活発で、京都・仲津両郡の土地の売買金高は、明治一〇年の一万九二一七円から明治一七年には一四万六三二一円に激増した。
 こうした借金や土地売買を通じて、農地は一部の商人、地主層に集積されていった。彼らは大部分の土地を農民に貸し付け、小作料をとって生活することになる。こうして、明治二〇年代には農村では広範に地主・小作関係が展開していった。